「ぬ」から始まる小さなお話*

<拭えないもの。>

拭えない想いがあります。
それは「ぼくは甲斐性がない」ということです。
ぼくの父親は立派な人でした。
でした、とはいってもまだ生きてますけれど。
幼い頃のぼくにとって、父親は立派でした。
知力、体力、経済力、
実際にはどうだったのかということとは別に、
ぼくにとってはそのすべてを持っている人でした。
間違いなく、そう見えていました。
だからこそじぶんがこうして大人になってから、
いつでも暗にじぶんと父親の存在とを比較して
「ぼくは(父親のような)甲斐性がない」
という想いをこころに募らせていきました。
いまでもずっと拭えない想いです。

ぼくは恋愛がうまくありません。
愛だの、恋だの、好きだの、男女だのについて、
もしかすると偉そうなことを、
わかったようなことを悟ったようなことを、
書いているかもしれないですが、
イエスがじぶん自身に対して奇跡を起こせなかったように、
ぼくもじぶん自身に対してはてんでダメなのでした。
恋が実る、実らない、好きが成就する、しない、
感情のコントロールがじょうずにできない、
というようなことではなく、
もっと根本的に「じぶんは足りていない」という感じが
常にあたまのなかにあり、こころの底にあり、
真っ向から恋愛に挑むことができないままにきました。
それは言い換えれば、足腰の弱さなのだと思います。

そのことに、じぶんのなかに拭えない想いがある、
甲斐性という鎖に縛られていると自覚したのは
ほんとうについ最近のことです。
ふらふらと、浮遊するように、自由に、
場所にも時間にも縛られずに生きていたいという気持ちと、
立派になりたい、地に足を着けて
日本の真ん中で恥じない生きかたをしたいという気持ちと、
この二つの矛盾しているようにも見える希望の根源はなにか。
ということについて考えていて、辿り着きました。

今になって思い返すと、学生の頃のぼくは
「知力」を手に入れるために必死でした。
それが甲斐性につながると信じていたのだと思います。
社会に出てからのぼくは、
「経済力」を手に入れるために必死でした。
それが甲斐性につながると信じていたのだと思います。
そして「体力」については目をつぶってきました。
「知力」もそうですが、けれどそれ以上に
「経済力」と「体力」に関しては、
どれだけあれば充分なのかが不明なのでした。
それゆえに、拭えない想いが拭えないままなのでした。

一つずつ、クリアにしていくしかないのだろうな、
という気がします。
どうやって、ということについては、
行動しながら考えていくしかなさそうです。
ただ、わかってきたことは、
「何を成すのか」が重要なのではなく、
「何者として何をし続けるのか」が問題なのだということです。
ぼくはこれまでずっと何かを成そうとしていましたが、
それを成したらもう充分なのだということは、
ないのだというように思えてきています。
一時的な満足感や充実感はあったとしても、
また時間が経てば「足りないじぶん」に戻るのです。
だからそうではなく、何者かとして何かをし続けること、
持続的に成し続けることで、おそらくぼくに足りないものが
徐々に埋められていくような希望があります。

人は生まれたときから葛藤がはじまります。
完璧な家庭などありえないものです。
だからこそ、それらを超えていくことが、
それぞれの生きるテーマであり、モチーフであり、
向き合っていくものなのだという気がします。

イデトモタカ(2013年7月1日)