「ふ」から始まる小さなお話*

<普遍性。>

ふつうなら絶対にしないだろうという
取り返しの付かないようなこと、
常識的に有り得ないようなとんでもないことを
「衝動的にやってしまった」という事件や事故は、
枚挙にいとまがないものです。

どうしてあんなことを・・・・。
誰かに対しても、あるいはじぶんに対しても、
その「衝動」についてそう思うことは少なくありません。
けれどここで重要なのは、
「衝動的にやった」ことだからもうしないだろう、
よっぽど特殊な状態でなければやり得ないだろう、
と思うのではなくて、むしろその反対に、
「衝動的にやった」ことだということは、
人間は誰しもそういう部分(衝動)を持っていて、
それがたまたまというのか、運悪くというのか、
オモテに出てしまったのだ、
こういうことは、やりうることなのだと考えることが、
非常に重要なことだと思うのです。

衝動買いをしたことがないという人は、
なかなかいないでしょうけれど、
衝動買いというものはなにか、といえば、
さまざまな細かい要素を無視すれば
一種の気晴らしだといえるでしょう。
これも、つまり人には、理性では好意的に考えていなくても、
あるいは後の面倒や悔やみの影が見えていたとしても、
「その場の気を晴らしたい」という衝動が、
誰しも普遍的に持っているのだ、ということなのだと思います。

この人間にある普遍的な衝動のなかには、
じぶんの今現在住んでいる場所や
生きている時間のなかの常識と比べたときに
「有り得ない」と思わざるを得ないような、
おかしいんじゃないかというモノも、あるのです。
例えば人の命を奪うということ。
あらゆる殺人事件は衝動殺人なのだそうですが、
人にはそういう部分(衝動)があるのだ、
それはもちろんじぶんのなかにもあるのだ、
ということは、知っておいたほうがいいことです。
もちろん絶対にしてはいけないことですが、
歴史的にも人は人の命を奪うということをしてきていますし、
はるか昔、まだ動物に近いような頃には、
もっとその衝動は身近にあったもののはずです。

それが今のぼくらの生活のなかでは、
理性や知性や環境やいろいろな鎧によって
オモテに出てこないように守られていますし、
ほとんどの人はそれを最後まで守り通すのですが、
そういう部分が「ない」人は、人のなかにはいない、
ということは、ぼくは大切な人間理解の土台のように思います。

実感的にいえている部分と、そうでない部分がありますが、
人間のなかの「普遍性」というものは、
文化や価値観と違って、そうそう滅びるものではないのだ、
ということを知ったことは、ぼくにとって大きなことでした。

大切な人(もの)を守りたい、これも人の中にある衝動です。

イデトモタカ(2013年3月25日)