「も」から始まる小さなお話*

<モノの貸し借り。>

モノを貸す、ということが、
ぼくは昔からひどく苦手で、
これまでの人生をふり返ってみると、
人になにかモノを貸して
「よかった」という経験をしたことなんて、
ただの一度だってないんじゃないか、
と今さらながら思えてきました。

まったくない、ぜろ、
ということはないのかもしれないですが、
いまのところ思い当たるふしがありません。
少なくとも、だれかになにかを貸したことで、
「貸してよかった」よりも「貸さなきゃよかった」
と苦い思いをしたことのほうが、
ぼくに関しては圧倒的に多いような気がします。

どうして急にそういう話をするのかというと、
ぼくはじぶんの過去や思い出というものの
記憶力がとりわけ弱い人間なのですが、
たまにふと、こころのなかのスクリーンに、
消化不良の出来事として映し出されるのが、
だれかになにかを貸して、
いい思いをしなかったときや、
いい結末を迎えなかったときの記憶なのです。

主には小中学生のときのことですが、
貸したゲームを返してもらえなくて、
泣きべそかいて家を訪ねていったこととか、
(ぼくの)父親が相手の家に電話してくれたこととか、
いま思い返すと、なんとも情けなかったり、
器が小さかったりする話なのですけれどね。
昔から少ないモノを大切にするというのが
好きな性分だったので、
返ってきたときにCDの裏が傷だらけだったり、
本のカバーが折れてたりすると、
ほんとにしょんぼりしてました。

じゃあ、どうするのがよかったのか、
と大人になったぼくとして考えてみると、
じぶんなりのルールを設けるべきだったなぁ、
というのがその答えになりそうです。
シンプルに「貸さない(貸し借りはしない)」
という案も考えましたが、
それでは他の場合に応用できないので却下しました。

では、どんなルールを持てばよかったかといえば、
それは「じぶんの空間」の範囲内と認められれば、
貸しても問題はないし、その範囲を超えれば、
貸すべきではない、ということになりました。

隣の机の人にハサミを貸したり、ペンを貸したり、
というのは、当然ぼくだっていいわけです。
おなじ事務所の人間に資料を貸すのも、いいのです。
それは、じぶんの生活空間の範囲内の出来事なので、
「貸す」ことが「外の世界に持ちだされる」ことには
ならないと思えるからなのです。
たとえCDを貸して、相手がそれを持って帰っても、
じぶんの空間のなかにいる関係なのであれば、
それはいいのではないかと思います。

高校生のとき、ぼくはダンス部に所属していて、
そこはじぶんの空間という認識があったので、
そのなかでの人間関係において
ダンスのDVDを貸したりしていたのは、
あれは問題なかったんじゃないか、という感じがします。
けれど、じぶんが引退した後に、
まだ現役の後輩におなじようにDVDを貸していたのは、
あれはよくなかったなぁと思います。
もうそこは、ぼくの空間の範囲外だったので、
今となってはですが、お互いに「貸し借り」に対して
以前とは違い、ぎくしゃくしていたような気がします。

「じぶんの空間」をどこまでとするか、
というのが、それぞれの貸し借りの範囲、
ということになるのだというぼくの考えからすると、
モノを貸す場合には、その期間よりも、
貸す相手とのこころの距離が重要になりそうです。
つまりクラスメイトでも、
貸していい相手と、よくない相手はいるものです。

「じぶんの空間」はどこまでなのか。
苦い思い出として消化されずにいた
ぼくの貸し借りの記憶たちは、
そういうことを考えるきっかけになったように思います。
これで、少しは消化されるといいなぁと願いますデス。

イデトモタカ(2012年10月19日)