「れ」から始まる小さなお話*

<連帯感。>

連帯責任という四字熟語を好きだという人は、
言う側を除いてそうそういないだろうと思います。
ぼくはいわゆる体育会系というものとは
幸か不幸か縁なく育ってきましたので、
そのことばに対する情念といいますか、
こびりついた思い出や感情はありません。
けれど、それでも良いイメージを持っていないのは、
きっと漫画や映画からの影響だと思います。
ステレオタイプな熱血体育教師や、
意地の悪い上官が「連帯責任だっ!」といって
全員に腕立てやランニングをさせる。
まぁ、そういうベタなイメージがあります。

連帯責任というものは、
そもそも「連帯感」というものを強めるため、
あるいは意識させるためにあるのでしょう。
ではその、「連帯感」とはなんなのか。
また、根本的に、人はじぶん以外の人と
果たして「連帯感」を持って生きられるのか
ということが、素直な疑問として浮かび上がります。

フーコーという思想家は同性愛者(ゲイ)だった
と言われていますが、彼は
「前提に家族とか男女の関係があってという次元でなく、
もっと本質的に考えると<ただ単独の人>が、人間同士、
連帯感を持ちうるのかってこと、
それがゲイっていうものの本質的な課題なんだ」
と、あるところで答えたそうです。

つまり、家族にせよ、恋人にせよ、仲間にせよ、
連帯感をそもそも人は持ちうるのか、ということです。
それについての解答はそれぞれでしょうし、
それでいいのだと思いますが、
ぼくについては「ある瞬間においては持ちうる」と考えています。
その「ある瞬間」は一時間や一日の場合もあるだろうし、
あるいは何十年の場合もあるかもしれません。
けれど、希望として「瞬間」だとしても、ある、
というふうに思います。

今後この国では、他人同士のほどよい連帯感が
より重要になってくるだろうと予想しています。
ぼくらの世代が老人と呼ばれる年齢になったとき、
今よりももっと結婚していない人や子どものいない夫婦が
増えているだろうと思います。
そういう人たちは晩年どうするかとなれば、
やっぱり孤独は嫌ですし、不自由も増えてくるでしょうから、
似たような境遇の信頼できる人と、同性異性に関わらず
連帯感を持って生きていく必要が強まる気がします。

どこまでいっても人は個であり、
肉体がわかれている以上、究極的な一体感、
連帯感というものを得ることは無理だろうと思いながらも、
一つの希望として「共に生きる」という姿勢は、
大切なのではないかと思います。

イデトモタカ(2013年5月30日)