しあわせになるのに・・・。

30分の一話の中で先の見えない苦しみは15分あたりにくるんだ

星野源さんの『エピソード』の歌い出し。
その後CMをはさみ、水戸黄門だったら印籠が登場するし、
サスペンスだったら崖で犯人と対話して、
ものがたりは解決に向かっていく。
人生だってそうなのだよ、ということで、
どうにもならんと思うことだってどうにかこうにかやり過ごし、
あとになって「そんなこともあったね」とか
「あんなことがあったから今があるね」なんて
懐かしく思い出す、というのはよくあるはなしで。

そういえば先の見えない苦しみ、みたいなことは近頃めっきり減り、
いや、減ってはなくて今だって全く先が見えてないのだけれども
それを苦しみだとはあまり感じなくなっている。
どうしてなのかな、と考えていて思い出したことばがある。

しあわせになるのにドラマはいらないんですよ。

もう何年も、ずっと前。
ある集まりで、それぞれの人生を語り合い、
その波瀾万丈っぷりに驚いてしまったことがある。
そしてそれがコンプレックスになった。
田舎の大家族でのんびり育ち、ふつうに大人になった、
という事実を、人生に波乱が(まだ)起きていないことを、
なぜだか引け目に感じてしまったのだった。
人生とはおかしなもので、心底願うとそれは叶ってしまう。
平凡であることにコンプレックスを抱いたからなのか、
その数年後には結構ドラマチックなできごとが起こり、
わたしもある意味で波瀾万丈な人生を手に入れた。
ある人からこのことばを聞いたのは、
そこから更に数年たった頃。

ドラマのように、事件が起きて、それを乗り越え解決し、
そしてやがてしあわせな毎日が訪れる。
子どもの頃に読んだおとぎばなしもみんなそうだった。
だからしあわせになるためには波乱がなくては、
と思ってしまうのだろうし、うれしくもない事件を求める。
そうすると、過去のできごとにおかしな意味付けしてしまったり、
必要以上の苦しみを呼び寄せてしまうこともあるんだろう。

しあわせになるのにドラマはいらない。
先の見えないことが苦しみではなくなってきたのは
いろんなことをわざわざドラマに仕立て上げるのをやめたから。
そもそもしあわせって“なる”ものではなく“感じる”もの。
おいしいものを食べてるときや、好きな人とのんびりしているとき、
ほっこりと「しあわせだな〜」と感じる、
そんなしあわせをきちんと味わい、積み重ねていけたら
ドラマを求めることなんかなくなるんだろうな、って思う。

シンデレラでも、白雪姫でも、王子様と結ばれたあとは
「しあわせにくらしました」でものがたりはおしまい。
その先が語られることがないのは
きっと語るほどのこと、ドラマがないから。
しあわせっていうのはある意味退屈なこと。
退屈でしあわせな毎日をかみしめて生きよう。
たまに退屈したら、テレビや映画で楽しめばいい。
そのためにドラマが生まれたんでしょうからね。

河村羽美(2012年10月6日)

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