俺、おまえのこと・・・。

“レッテル”ということばをはじめて聞いたのは
確か小学4年生のときだったと思う。
それはボトルなどに貼ってあるラベルのことで、
“レッテルをはる”ということばは、
誰かのことを一方的に「こういう人だ」と決めつける、
という意味なんだよ、と先生が教えてくれた。
その光景を今でも覚えているのは、
そのあとに先生が言ったことにおどろいたから。
「レッテルは、一度貼るとなかなかはがれないものなのよ」と。

なんておそろしい。
一方的に貼られたうえに、はがれないなんて。
そんなこと理不尽だ、と、子どもながらに憤ったけれど、
そのとき憤ったわたしも、大人になるにつれ、
気が付けばいろんなレッテルを貼りまくって生きてきた。
「あの人はこういうところがあるから苦手だ」と、
主にわたしにとって不都合な評価をするときに
レッテルは大活躍してくれたし、
わたしの中のレッテルの在庫はふんだんにあるので、
どれだけ貼ってもなくならないんだもの。

だけど、レッテルは貼られた人が不自由になるんじゃない。
そのレッテルに書き込んだことがらに縛られるのは
貼り付けわたしのほうなんだ、と気づいたのは最近のこと。
「あの人にこの話をしたって同意してもらえるはずがない」
と決め込んで、いろんな言い訳考えてドキドキしながら話したら、
あっさり「それいいね!」と言われて拍子抜けしたことがある。
あぁ、私はその人そのものではなくって、
その人のニセモノを勝手に作って対峙してたんだな、と。
レッテル貼りまくっていたわたしはつまり、
ニセモノだらけのせまい世界に君臨してた、
勘違いのはなはだしい主人公だった、というわけだ。

知り合いの男性で、歯に衣着せぬ物言いがすがすがしい
ステキな方がいらっしゃるのだけれど、
その方がある人に言ったことばにはおどろいた。

俺、おまえのことキライだよ

でも、それと同時に、「こいうところがイヤなんだ」と
はっきりその人の問題点を伝えてもいた。
その後、キライと言われた人のその「イヤ」な部分が
すっかりなりを潜めたころ、
その男性はその人ととても仲良さげに話をして、
「今のあなたはいい感じだからスキだよ」と言ってるではないか。

キライと思う人に「キライだ」と面と向かって伝えるって
なんて子どもっぽいんだ、とはじめ思ったけれど、
キライなところがそうじゃなくなればキライじゃなくなる
ということはつまり、“止まってない”ってことだし、
しかも、貼ったレッテルに縛られてもいない。

この先も、へんなレッテル貼ってしまうことあるだろう。
でも、消えないペンで書き込んで、その情報に縛られて、
思考を止めてしまっていたら残りの人生もったいない。
はがれないなら書き換えちゃえばいいじゃないか。
目の前の人だけをまっすぐ見つめていればきっと、
あると思っていた壁とか扉はなくなって、
今いるところよりもずっとずっと見晴らしのいいところに
ニセモノのいないところにたどり着けそうな気がする。
いや、そもそも今いるところがそんな場所だった、
って気が付くのかもしれないね。

河村羽美(2012年10月20日)

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