筋肉が観念して・・・。

数年前のスピリチュアルブームの時に
「身体は魂の乗り物だ」ということをよく耳にした。
乗り物を降りるときが死であり、魂は生き続けるという。
魂の世界があるのなら安心だ、という思いは、
生きていることとそうでないことの境目を
ずっとずっと曖昧なものにしてくれたし、
大切な人たちの不在を受け入れるための口実にもなった。

はなしは変わり、今年の夏のある日、
24時間かけて勝手に100km走るという無謀な計画を立てた。
そんな距離走ったことがなかったので、
50kmくらいで膝とか脚の筋肉がパンパンで限界に。
サポートしてくれていたプロのトレーナーさん曰く
「筋肉がもうカチカチだ」とのこと。
それでも言い出したのはわたしだし、やめるわけにはかない。
再び走りだしたら、なぜか徐々に痛みが消え、
楽勝で走れるほどに回復してしまった。
そのときのトレーナーさんのことばが忘れられない。

筋肉が観念して、「しかたがないからやるか!」
って言ってる感じですね。


みちがえるほど筋肉がやわらかくなっていたらしい。
そうか、がんばっているのはわたしじゃなくて筋肉じゃないか。
そう思って以降、たびたび脚をさすっては
「もうちょっと、なんとか最後まで走らせてください。」
と我が筋肉にお願いし、ご機嫌伺いながら
なんとか筋肉様と折り合いつけて走りきった。
(結局30時間もかかっちゃったけれども・・・)

昭和の哲学者、中村天風師は
「身体も心も人間(魂)が生きるための道具だ」
というようなことを説いておられた。
身体が乗り物だ、ということはわかっていても、
ついつい心は自分のもので、心こそが自分だ、
と思ってしまいがち。でも、そうじゃないという。
病気になったからといって、心まで病む必要はない、
魂、つまり自分自身が身体と心を使っているのだ、と。

あの夏の日、身体とわたしは確かに別のもので、
でも“わたし”は身体を支配できていなかった。
きっと心もわたしとは別のものに違いない。
身体と同じで、心もきっと支配はできない。
誰かが支配するものではなく、
「互いに折り合いつけて楽しくいこうよ、同士たち」
まぁそんな心持ちでじゅうぶんなのかもしれない。

日頃「気に病む」ことは、些細な事から重大なことまで
あれこれ起こるものだ。
でも「気」を「病」んだとしても、
心まで病まないように、身体まで病まないように、
わたしはわたしでいられるように。
たまたま手を取り合ってこの身体に集った仲間として
互いに尊重しあえる、そんな仲でいられたら、
グズグズ思い悩むこともなくなるのでしょう。

まだまだそのあたりは半人前だけれど、
お先に身体を脱ぎ捨てた人たちと再び会う日、
「うまく乗りこなしたね〜」
「仲良くやってたよね〜」
なんて言われたらうれしいな、と思う。
だからうまくやっていこう、って思う。
それが「生きる」ということなのかもしれないね。

河村羽美(2012年10月27日)

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