人生をじゃがいもと・・・。

大人になって、人前で話す機会も多くなり、
かなりましにはなったものの、
それでもいまだに、わたしは本番にはめっぽう弱い。
ボーリングでスペアのあとに1本しか倒れないとか、
そんなことはざらにある。
なんとかしたいと思うんだけれど、
緊張しちゃうものはどうしようもなくて、
手のひらに「人」って3回書いたりしてしまうのだ。

緊張するのは、「いいところみせてやろう」とか
「失敗したらはずかしいなー」なんて
まわりの人の目を気にしてしまうからなのだけれど、
まぁ実際まわりの人がわたしに注目してるのか、
といえばそうでもない、ってこともわかっているわけで。

ところで、昨夜あるお店のすぐ後ろの席で、
40〜50代ぐらいの男性たちが楽しげに飲んでいて、
そこからあるおかしなことばが聞こえてきた。

人生をじゃがいもとじゃがいもじゃないのとにわけたら・・・

話の前後は聞き取れず、このフレーズだけ飛び込んできたので、
いったいどんな話なのかは全く想像がつかない。
でも、大勢の人前で緊張しているときに
「ここにいる人たちをじゃがいもだと思えばいいんだよ」
と言われることがあるってことは、
じゃがいもは、目も口も耳もないとるに足らないもの、
と捉えられがちだ、ということだろう。
自分の人生のとるに足らない部分とそうじゃない部分、
ってことになるのかな?なんて勝手に想像してしまった。

自分の人生を振り返って、今思い出すことっていうのは、
それがどれだけとるに足らない思い出だったとしても、
何らかしら記憶の、感情のひだに引っかかったこと。
そういう意味では、思い出にすらなっていない、
もしかしたら平和で穏やかで退屈だった日々が
「じゃがいも」なのかもしれないな、と思うと、
なんだかじゃがいものあの素朴な風貌が
幸せの象徴のように見えてきやしませんか?

そういえば、じゃがいもが嫌い、という人、
わたしのまわりにはほとんどいない。
ポテトフライなんて老若男女問わず、
世界共通で愛されている食べ物だし。
主役を彩っているようだけれど、
じゃがいもを食べているその瞬間は、
じゃがいものおいしさを味わっているのだから、
じゃがいもみたいな人生、それもまたいいじゃない。

じゃがいもだと思ってしまえ作戦は
確かに緊張をほぐすのに一定の効果はあって、
おかげで緊張せずスマートにやりすごせたことだってある。
でも、目も耳も口もある、じゃがいもじゃないひとたちを前に
(本当のところはそんなに気にされてないとはいえ)
自分のことをどう思うかな、ちょっといいとこ見せたいな、
なんて気になって緊張して、うまくできたりできなかったりで、
右往左往しながら生きている人生っていうのも、
ある意味じゃがいもみたいな、
でこぼこと楽しい人生なんじゃないでしょうかねー。

河村羽美(2012年12月8日)

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