「そんなの嫌だ」と・・・。

ここのところ生傷が絶えない。
走ってて転んだり、掘りごたつに落っこちたり。
夏を迎えるのがおそろしいほど、わたしの脚は擦り傷だらけだ。

思えば痛みに強くなったものだなぁ。
いまだに顔はそむけてしまうのだけれど、
でももう注射を打たれる時に逃げまわることはしないし、
ケガをしたって(たいていの場合は)もう泣かない。
こどもの頃のわたしに言ってあげたい。
「オトナになるってことは、
 痛みに強くなるってことなんだぜ」と。

先日、なんだかいろんな発想がネガティブな人が
「あなたの子どもが、あなたを見て、同じ判断基準を持ち、
 あなたのコピーのように育っていくとしたらどう思う?」
と尋ねられた時、「絶対に嫌だ」と即答していた。
そして、その後、こんな言葉をかけられていた。

「そんなの嫌だ」と、その痛みを感じないといけないよ。

こんな自分になりたい、という姿を彼は持っている。
でも、なかなかネガティブな思考から抜けだせずにいた。
痛みをしっかり味わって、そんなの嫌だと心底思えたら、
ありたい姿はより明確になり、真実味を増し、
行動だったり思考だったりについて、
何かしらやっと動き出せるのだろうな、と、そのとき思った。

わたしも、実は月間100kmは走ろう、なんて目標があるが、
もう何ヶ月も達成していない。
達成できたのは、大勢に宣言してこまめに報告していたり、
大会が目前に迫って、このままでは完走できない!
と焦っているときだけだったような気がする。
なんとも弱いわたしの意志を嘆きたくなるけれど、
実は目標に向かって一歩一歩進んでいける人は少なくて、
多くの人は、恥ずかしいとか、苦しいとか、
明確な痛みをイメージできた時に、
その意志の力は発揮され、突き動かされるのだろう。
そしてその痛みが大きければ大きいほど、
意志が強く働くのだろう。

痛みを避けるためにがんばる。
あんまり良い印象ではないけれど、
それが一番の動機になる、ということは、
自分を例に挙げても、周りを見回してみても、
どうやら正しいようだ。
何かをどうしても達成したいのであれば、
達成できなかったときの痛みを明確にイメージすることは、
目標を掲げるのと同じぐらい、いや、それ以上に大切なのだ。

身体の痛みに強くなったとはいえ、
こころの痛みにはなかなか強くなれなくて、
どうでもいいことを恥ずかしがってしまったり、
口さがないひとことにダメージ受けたりするのだけれど、
その痛みを知ってるからこそ成長できるのだし、
なんとかここまで成長してこられたのだろう。
ちくちく痛んだこころの傷もムダじゃなかったな、と、
ちょっとだけ感慨深くそう思う。

河村羽美(2013年3月2日)

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