誰が主人公になるのか・・・。

今日は誰かのことばではないのですけれど。
録画したままになっていた大河ドラマの『八重の桜』を
先日久しぶりに観ていて、ふとこう思った。

誰が主人公になるのかで、物語は変わるのだなあ。

というのも、坂本龍馬が暗殺されたことを、
土佐藩の誰かが、セリフの中でチラッと、
それを匂わせる発言をしただけで終わりだったのだ。
同じく大河ドラマの『龍馬伝』では、
あれほどドラマチックに、
その日に向かって物語が進んでいったのに、
全く同じ時代、同じ事件の持つ意味が、重みが、
これほどまでに変わってしまう。

はじめて失恋をしたとき、泣いているわたしに
「もっと良い人に出会えるって。」
と励ましてくれた友人がいて、けれどそのときわたしは
「人の気も知らないで、そんなに軽々しく言わないで!」
と、こころの中で毒づいてしまったものだった。
これ以上の悲しみはないだろうと打ちひしがれていた時、
同じように悲しんでいるだろうと思っていた人が
テレビを観ながら笑っているのを見て、
信じられない、と、ひとり憤りを感じたこともある。
けれども、きっと彼らが今、そんなシーンを
ほんの少しも覚えていないだろうことは想像に難くない。
これはあくまでも、わたしが主人公の物語なのだから。

坂本龍馬が生前ほとんど無名だったのは有名な話だ。
おそらく、明治維新に至る様々な局面で
彼が活躍したことは事実なのだろうけれど、
幕末の政局は、坂本龍馬を中心に動いていたのではない。
坂本龍馬を主人公にして幕末の政局を見たら、
このような物語が浮かび上がる、というだけのことだ。
誰が主人公になるのかで、物語は変わるのだ。
同じ時期に生きた人々それぞれに、
その人を主人公にした物語が存在しているのだ。

親にもっとこうして欲しかった、とか、
きっと自分は愛されていなかったんだ、
という思いを抱えている人はほんとうにたくさんいる。
わたしももちろん例外ではなく、思うところはいろいろ。
けれど、わたしが生まれた時、両親はまだ23歳で、
両親を主人公にした物語を想像してみたら、
まだまだ子どもと言ってもおかしくないような年齢で、
(少なくともわたしが23歳のときはまだまだ子どもだった)
夜泣きのはげしい、ミルクも飲まない赤ちゃんを、
ただただ育てていくことにいっぱいいっぱいで、
愛情を持ちつつも途方に暮れた瞬間はたくさんあっただろう。
そう思えば、少しだけ理解できたような気がするから不思議だ。

主人公が変われば物語が変わる、というのは、
ある意味あたりまえのことではあるのだけれど、
このことは、常々あたまの隅に置いておこうと思う。
親友であっても、恋人であっても、家族であったとしても、
その人はその人が主人公の物語を生きているのであって、
自分の人生劇場で自由に動かせるコマじゃない。
わたしにしたって、彼や彼女の物語に登場しては、
ひっかき回しているのかもしれないのだし。
そう思っていれば、日常的に起こる意に沿わないできごとに、
いちいち憤ることもずっとずっと減るだろうし、
自分の人生に起こるいろんなことに、意味や解釈を付けず、
まっすぐに受け入れるきっかけにもなるような気がするのだ。

河村羽美(2013年6月11日)

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