<応援というものは。>

応援というものは、
できるときに、したければ、する。
そのうえで、じぶんが無理なく、
できるサイズのことをする。
という、ただそれだけのものだと
ぼくは思っています。
ボランティアに関しても、
似たような価値観をぼくはもっています。

なので、応援することが、
過度に求められたり、
過度に評価されていたりする状況をみると、
とても違和感をおぼえてしまいます。
そういうのじゃ、ないんじゃない?
と思ってしまいます。

たとえばぼくはいろんな人から、
ネーミングやキャッチコピーの依頼を受けます。
そのときに、それがお仕事なら、
内容や金額やじぶんのやる気に応じて、
請けたり請けなかったりを選びます。

それが仕事じゃなく、ともだちなどから
「ちょっと力を貸して」という場合だったなら、
ぼくはじぶんがそれをいま応援できる状況で、
やりたいと思ったら「いいよー」といいますし、
やりたくないと思ったら「ごめんー」といいます。
仮にやりたいと思っても、
それをできる立場や状況じゃなかったり、
明らかにじぶんの分を超えているものに関しては、
引き受けないことにしています。
(というか、できないしね。)

だから、
「いまは歯を食いしばって、
あの人のことを応援するんだ!」とか、
「なんで俺がこんなにお願いしているのに、
あいつは協力してくれないんだ!」とか、
そういうのは、ちょっと違うんじゃない?
と感じてしまいます。

応援する側ができることというのは、
応援できる状態でいることであり、
したいと思ったときに、できる範囲のことを
(気もちよく)してあげる、ということです。
反対に、応援してほしい側にできることは、
応援してもらえるじぶんであるように生き、
応援できる状態の人に、応援できるサイズのことを
こころからお願いする、ということなんだと思います。

どちら側にせよ、それより外のことを求めるのは、
ぼくは「応援する」ということを、
なにか他のものと勘違いしているんじゃないか、
もしくは、『ただ好き。』のときに書いたように、
別の思惑と混ぜてしまってるんじゃないか、
というふうな気がします。

できるときに、したければ、する。
それで、いいんじゃないですかねー。

応援するにしても、好きでやってる、と思えないとねー。

イデトモタカ(2012年10月18日)