<女房的リアリズム。>

「女房的リアリズム」ということばを
ぼくは吉本隆明さんの講演で知りました。
どんなにすごいといわれている人でも、
近親者からすれば、ただの人なのです。
外では先生、神様、と呼ばれていても、
家では「あんた」だったりするものです。

けれど、その人が内と外で嘘をついているか、
猫をかぶっているのかといえば、そうではない。
人間らしくふつうに過しているほうが、
むしろこの「女房的リアリズム」は働きます。
そのために、人は非近親者しか救えない、
という見方もできます。
近くにいる人同士では、
見えなくていい背景が見えてしまうから、
それが大抵の場合は邪魔をしてしまうのです。
「偉そうなことをいっているけれど、
昔はただのガキ大将だったじゃないか。」
「外では尊敬されているようだけど、
小さいときは内気な泣き虫で、
よく一緒に遊んでやったじゃないか。」
「数年前までネガティブなことばっかりいって、
溜め息混じりにコンビニ弁当食べてた奴が。」
そういう思いが小さじ一杯でもあったなら、
やっぱり人は斜に構えてしまうものです。
あたまとこころを真っ白にして、
フラットな気持ちで聞くことは難いのです。

ということは、
尊敬や憧れや心酔や偉大さというものには、
ある種のブラックボックス、
つまるところ幻想や期待や想像妄想の余地が、
少なからず必要であるのではないかと思います。
反対からいえば、知りすぎることで失われることば、
というものもあるのだ、という気がするのです。

その上で、なお近親者、つまり親や伴侶、
パートナーから信頼以上の敬畏を受けているとすれば、
ともすれば外の人たちが感じるのと同じ偉大さがあれば、
それは本当にすごいことですが、
果たしてそれは「人間らしい人間なのか」という疑問が、
ぼくなんぞは抱いてしまいます。
有識者の方々などは、そういったものを目指そうと
自身を鍛え、戒め、道徳的であろうと努められておりますが、
いやぁ、「やめとけやい」というのが本音です。

女房的リアリズム、いいじゃねぇか、と思います。
そういう人のほうがね、ただただ、ぼくは好きです。
人間をたのしくやってると、そうなるんですよね。
ただ、この「女房」にお伝えしておきたいのは、
あなたの前にいる「あんた」がリアルなのでなく、
外の顔も内の顔も、どっちもホントなんだ、ということです。

イデトモタカ(2013年2月13日)