<離れて過ごす期間。>

常に新しい刺激を求め、
知らない世界を知ること、
可能性が広がることに面白さを感じる。
これは水が苦手な魚がいないように、
人間だれしもが持っている性質なのだと言えそうです。
そのために、あらゆる判断や選択の成功や失敗も、
もとをたどればこういった癖、
性質からきていることも多いように思います。

支え合うから人間なのだ、といいますけれど、
やっぱり実際に何十年と生きてみて、
じぶん一人だけでなにをやったかなと思ったりします。
だいたいのことは「じぶん+だれか」でしたことです。
直接的には関わっていなくとも、
そのだれかの存在がなければ、
こうなってはいなかったということばかりです。
そういう意味でも、パートナーと呼べる存在は、
ぼくはひじょうに重要だと感じています。

恋愛においても、仕事においても、
パートナーによって結果は大きく変化します。
そして最高のパートナーは、文字通り人生の伴走者のように、
常にそこにいてほしいと望むようになる対象です。
けれど、なのです。
けれど、冒頭に書かせていただいた人間の抗い難い性質、
先天的な癖として持っている、常に新しい刺激を求め、
知らない世界を知り、未知の可能性を広げたいという、
この欲求というものは、ある意味で「じぶん」から
適度に遠い存在でなければ満たされにくいものです。

変わった人だなぁと思ったり、
じぶんとは違う世界の人だなぁと驚いた相手でも、
魅かれて親密になっていくということは、
結果としては「似てくる」ということになります。
似たもの夫婦といいますが、
一緒に感心し合って過していくと、人は似てくるのです。
互いの「いいね!」を吸収していくわけですから。
だけれど、そうすると、いつかは「刺激」がなくなります。
生活も反応も類似してくると、触れる事柄や
身をおく環境も似通ってくるので、
それを「心地良い」と表現できるのかもしれませんが、
裏を返せば「つまらない」にもなってきます。

そう考えると、パートナーとは、
恋愛でも仕事でも、感心し合って親密に過ごす期間と、
仕入れではないですが、別々の刺激を個々に受けるための
離れて過ごす秘密の期間と、この両方があることが、
ぼくは理想的なのではないかと思うのです。
そういう関係に憧れるから、
ぼくは別のところで別のことをしているともだちや女性を
いいなぁと思ったり、好いたりしている気がします。

好きな人ほど、仲の良い相手ほど、
より親密になるために、より尊敬するために、
離れて過ごすことが必要。
こういう矛盾のようなものが人生にはたくさんありますが、
それがまた、この世界を面白くしているように思います。

ぼくが「ひとりの時間」を尊重する理由も、
あるいはおなじ理由なのかもしれません。

イデトモタカ(2013年5月2日)