<一つのやりかた。>

一所懸命に全力でやってきた結果が、
いまのじぶんなのだとしても、
皮肉にも、全力でやってしまってきたことが、
いまのじぶんになってしまったのだ、
と思うことがあります。

もし過去をやり直せるとしたら、
どこか一つでもやり直してしまった時点で、
いまのぼくではなくなってしまうかもしれない。
そう思うと困っちゃうのですけれど、
まぁ、仮定の話として過去をやり直せるのなら、
ぼくは「力を抜く」ということをしたいです。

常になにかしらかに熱中していた学生時代。
ぼくはたぶん「全力」だった気がします。
だからこそ、得られたものもたくさんあります。
けれど、いまの年齢になったからこそ
はじめてわかることなのですが、
力の抜きどころをまったく理解していなかったので、
さまざまなモノゴトが「そこそこ」だったとも思います。

学生時代よりは後、けれど現在よりは前、という時分なら、
あのときもっともっと頑張っていれば、
全力のさらに全力を発揮していたら、
と思うこともあったのですが、いまは違います。
違うどころか、正反対のことを思います。
あのときほんのわずかでもぼくに
「力を抜く」余裕があったならなぁと思います。

じぶん自身がストイックになる分にはいいのです。
好きにせいやいです。
けれど、社会という関係性のなかで生きるには、
それはあまりうまく機能しないことが多いのも事実です。
陸上競技でも、恋愛でも、勉強でも、友人関係でも、
服装でも、全力を尽くすことはうつくしくもありますが、
それと「望む結果」とは、必ずしも比例しないものです。
大人のみなさんなら、ぼくよりももっと以前から、
もっと腑に落ちて、ご存知のことかもしれません。

全力を出すことを、ぼくはまったく否定しません。
出せ出せ出しなはれと思います。
けれど、それは「一つのやりかた」でしかないぞ、
ということは、思います。
力を抜くという、また別の一つのやりかたが、
全力を出すというやりかたを超えることだって、ある。
たくさんある。
そういうことを、いっているだけです。

毎日毎食全力でお腹がはちきれそうになるまで食べる人と、
たまにはいっぱい食べるけど、ふだんは八分目に食べる人。
どちらが健康かは、ま、いうまでもないわけでしてさ。

イデトモタカ(2013年6月11日)