<じぶんのための好き。>

じぶんのために人を好きになるのなら、
じぶんの幸福のために愛するのであれば、
やはり浮気は許せないし嫉妬もするでしょう。
なにせ、それらはじぶんの幸福の脅威ですから。
危機の対象なのですから。

いや違う、わかっていない。
そういうことをする人だったことが悲しいのだ。
そういうことをする人を好きになったという、
じぶんの見る目のなさが哀れなのだ。
そう言う人もいるかもしれません。
けれど、それにしてもやはり、
じぶんのために人を好きになっているものです。
じぶんの理想どおりに、思いどおりにならないことが、
そういう相手でないことが、そう相手が動かないことが、
苦しくて、辛いと感じているわけですから。

ぼくは浮気を肯定しているわけでも、
嫉妬を否定しているわけでもありません。
ただ、じぶんのために人を好きになっているのなら、
それは客観的に理解しているほうがよいと思います。
「わたしはこんなにも好きなのに」
という、わけのわからない理屈に、情動に、
振り回されることがなくなると思いますから。
そうすると、生きるということが、
ずいぶんとやさしくなるような気がします。

じぶんのために人を好きになることを、否定しません。
けれど、前提に「じぶんのために」という、
こちら側の都合を一歩踏み込んでいるのなら、
そのためにどこかで一歩下がるということが、
均衡を保つためにぼくは必要なのではないかと思います。
あるいは、じぶんのために好きになっているのに、
それを相手のためだと思い込んでいる場合は、
もう伝えられることばはないのですけれど。

じぶんのためでなく、相手のためでもなく、
ただその人を好きになる、愛しく想うということは、
ぼくは願いや祈りのようなものではないかという気がします。
ぼく自身が未熟なので、よくはわかりませんけれど。
けれど、好きな人の幸福を願う、祈るということは、
必ずしもじぶんの都合と一致するわけではないはずなのです。

あるいは、嫉妬されてうれしいというのもまた、
じぶんのための「好き」なのでしょう。

イデトモタカ(2013年6月15日)