<よくわからない魅力どうし。>

ことばにできない部分で惹かれ合う方が、
関係としてはよほど強いぞと思います。
惹かれ合っている部分を容易にことばにできる、
解説できる、的を射られる関係というのは、
それはもう(ぼくの感覚では)商いに近いです。

神社にある注連縄(しめなわ)のように、
取るに足らない細い細い繊維が集合していくことで、
強靭な一つの関係になるのだと思われるのです。
集合体である注連縄だけを見てみたところで、
どれがどう活きているのかは不明です。
けれど同時に、少々どこかで問題が起きたとしても、
それをカバーできるに余る関係がまだまだ
あるのだということはわかります。

昨日、大学時代から続いている唯一のともだちと、
焼き鳥を食べに行きました。
しょっちゅう一緒にいるわけではないですが、
おなじ時間と空間にいるときは、
昔から変わらずとてもたのしい相手です。
では相手のどこにそんな魅力があるのかといえば、
失礼な話「これ」というものはないわけです。
向こうにしてもそれは言えるのだと思います。
強いていうなれば、アートとユーモアの好みが似ている、
ということはあるのかもしれません。

アートとユーモアというものは、
これほんとに「よくわからない」存在の代表選手です。
その好みが似ている、センスが近いというのは、
それこそ「じぶんでもよくわからない部分」を
互いにわからないなりに共有できているということで、
まったく強い関係だという気がするのです。
なにせじぶんでさえことばにできないわけですから、
そうそう否定も生まれません。

あの人の方がこの人よりもアーティスティックだとか、
ユーモラスであるとかいうことは、
あるにはあるのかもしれませんけれど、
だからといって「この人」との関係が無になるかといえば、
そんなことはないんじゃないかと思うのです。

家族にしても、よくわからない絆があるからこそ、
うまくやっていけるんじゃないかなという気がします。
わかりやすい絆もいいのかもしれませんが、
ぼくはよくわからない絆や情の方が、
ずっとずっと、しなやかで強いのではないかと感じています。
あるいはうんと期間は短かったとしても、
即座に親友になるという場合でも、
重要なのは「説明できない謎の感覚がすごく合う」ことで、
どうこうどうだからわたしたちは仲良し、
ではないのではないかなと。

じぶんの好きなことにしてもね、
「なんだかよくわからないけど好き」というものが、
なになにの役に立つからだとか、どう有利だからだとか、
そういうわかりやすい動機や好きよりも、
ずっとじぶんに「合っている」んじゃないかと思います。

イデトモタカ(2013年7月13日)