<見えないものを見る方法。>

見えないものを見る方法。
たとえば「風」はたしかに存在しますが、
ふだん目にすることはありません。
そのものと対峙することはありません。
でも、揺れる風鈴や草花をとおして、
ぼくらはそれを「見る」ことができます。

見えないものを見る方法。
たとえば「数字」はたしかに存在しますが、
実在するものではありません。
「3」や「5」そのものと出会うことは
一生に一度もありません。
だれも見たことがありません。
けれど、5つ並べられたトマトや、
三つ葉のクローバーの花びらをとおして、
ぼくらはそれを「見る」ことができます。

見えないものを見る方法。
たとえば「友情」はたしかに存在しますが、
がっしりとつかむことができるかといえば、
それはできません。
特別なことがない限り、
あるのだと信じているだけです。
とはいえ本当にじぶんが困ったときに、
もうお終いだというときに、
かかってくる電話の着信画面や、
かけつけてきてくれた車の姿に、
ぼくらはそれを「見る」ことができます。

見えないものを見る方法。
たとえば「恋」はたしかに存在しますが、
手の上の乗せることも、
大事に箱にしまうこともできません。
だったら、ないのではないか、といえば、
そんなわけはないわけで。
その見えないもののために人は生き、
そして死んできたのですから。
注意していないだけで、
少女の赤らむ頬に、少年の震える指に、
つまりいたるところに、
ぼくらはそれを「見る」ことができます。

見えないものを見る方法を、
ぼくらはたくさん持っています。
でも、だからといって、
無理矢理に「見る」必要もありません。
まして「見せろ」というものでもありません。
見えないけれど、あるのだ。
ほんとうは、その気もちだけでよかったりします。
それだけでもう、あるのです。

イデトモタカ(2013年7月14日)