<第三のなにか。>

日常的にお祈りの時間がある人たちは、
いつもの倍忙しい日には、
いつもの倍お祈りの時間をとると聞いて、
ぼくはひどく納得し、感動した。
均衡とは、そういうものだと思った。

なにかをはじめるなら、
他のなにかをやめなければならない。
それは正論だ。
なにかの時間を増やすのなら、
別のなにかの時間を減らさなければならない。
それも当然だ。

けれど、祈る彼らはそうしないのだ。
新たな選択肢をとったのだ。
なにかが増えるなら、もう一方のなにかも
増やすということを選ぶのだ。

そんなこと、できないだろうと思われる。
それは不可能だ、無理だ、と反論される。
でも、実際にそうする人たちがいるのだ。

もちろん、すべてのことには、すべての人には、
あてはまらない方法かもしれない。
それでも、ぼくは提案したいと思う。

なにかをはじめるのなら、
他のなにかもはじめようと。
なにかの時間を増やすのなら、
別のなにかの時間も増やそうと。

そうすることで減る「第三のなにか」こそ、
本当にやめるべき、減るべきものなのだ。
けれどそれはふだん、見えない場所にあるものなのだ。

イデトモタカ(2013年8月23日)