<人と深くつながる幸福論。>

人には固有(特有)であることへの憧れと、
またそうであることへの孤独感があります。
じぶんだけの経験、過去、価値観、
親との関係、葛藤、苦い思い出、理解されない目標。
あるいは音楽の好みや趣味、人生への向き合い方。
そういった一つひとつの小さな粒が、
集まって集まってじぶんを固有の存在に仕上げます。

だからこそ、人には理解者が必要なのだと思うのです。
生きることは苦悩です。
そう断言するのはどうかとも思うのですが、
一切皆苦ということばには、やはり真理を感じます。
苦が前提の世界だからこそ、人は幸福を体感できる。
これは否定できるものではありません。

生きることは、意味不明の連続です。
出来上がった世界に、後から参加するのが人生ですから、
あらゆる変えられないことで満たされた世界です。
生まれ落ちる、という表現がありますが、
まさにそのとおりで、すでにある場所、文化、環境の中に
突然新しいプレーヤーとしてやってくるのですから、
意味不明だらけで当然なのです。

それゆえに、つまり理解できないことだらけで、
理解されないことだらけで、
じぶん一人浮き上がっているのではないかという
快感とそれをずいぶんと超える孤独や不安のために、
人は理解者という存在を欲するのではないかと思います。

なにごとも、抱えている限り、重くのしかかります。
一緒に持つことで、あるいは手放すことで、軽くなる。
当たり前の原理です。
ぼくはこれを解放と呼んでいます。
つまり、詰まるところ人の幸福とは解放感ではないか
と強く思うところがあるのです。

そして、最大級の解放とは、
「じぶんを忘れること」ではないのかと。

他者と分かり合うことで、深くつながることで、
人はじぶんの特別感から解放されます。
それが人間関係から生まれる癒やしなのだと思うのです。
放っておけば、溜まる一方で、どんどん重くなるこころ。
それを軽くすることが、大きなテーマではないかしらんと。

相手がじぶんと同じ痛みを持っている、苦悩を持っている、
あるいは理解し合える過去や経験を抱いていると知ったとき、
人はそのことに関するじぶん自身を一般化でき、
忘れることができる、つまり解放される。

幸せとは人と深くつながること、絆を深めること、
と言った人のことばの意味が、ようやくわかった気がします。

イデトモタカ(2014年7月8日)