<好きの取り扱い。>

スポーツドクターの辻秀一先生が
とても興味深いことを言っていました。

「今の学校教育は個人の<好き>を
大事に扱っていません。
ぼくは数学が好き、と言っても
あなた計算遅いじゃないと言われ
わたし国語好き、と言っても
あなた漢字書けないじゃないと言われます。
そうして<好き>は価値がないもので、
<得意>であることが大事であると
子どもは思うようになってくるのです」

まったくこのまま言われていたのではなく、
ニュアンスとしてこういう感じだったのですが
ぼくはなるほどそうだと深く頷きました。

<好き>だというだけで、
得意でも詳しくもなんでもないのなら
何の意味があるというのか、価値があるというのか。
そういう意見は正論なのかもしれないですが、
ぼくは好きではありません。
うまく反論できるわけでもないのですけれど、
ただ<好き>というだけで、いいじゃないかと。
得意でも詳しくもなくても、いいじゃないかと。

得意なことをしている方が、
お金を稼げるかもしれませんし
社会の役に立つのかもしれません。
けれど好きなことをしている方が、
こころはきっとたのしいです。
ハッピーなはずです。
単純ですけれど、ハッピーなほうがいいです。

人は好きなことをしているとき、
あるいは好きなもののことを想っているだけでも
こころが「揺らがず」「囚われず」の
とてもいい状態になるのだそうです。
それはもう、科学的に言い切れるのだと。
そして、人はそういうときにじぶん本来の
パワーを出しきれるのだそうです。

<好き>はいつか<得意>に格上げされて
ついには<人の役に立つ>まで辿り着くと思います。
突き抜ければ、そこまで行くと思うのです。

別に人の役に立つために生まれてきたわけでもなく
社会に貢献するために生きなければならないわけでも
ないと思っておりますが、そうしたほうがじぶん自身も
生きやすいには違いないでしょうからね
そうできたならいいなとは思うのです。

<好き>は貴重な感情です。
それをまだ得意じゃないからといって
笑ったり否定したりすることだけは
よっぽどくだらないのでやめたいものです。
教育とはむしろ、そういうことじゃないかとさえ思われます。

イデトモタカ(2014年9月25日)