<死ににくく、生きにくい。>

この世界はずいぶんと死ににくくなった。
まだまだ飢餓や貧困で苦しんでいる国、
紛争などで寿命の短い地域もあるけれど、
それでもずいぶんとぼくらは死ににくくなった。

医療技術の発展や栄養のある食事だけが
その理由ではない。
どれだけぼくらが将来が不安だとか、
老後が不安だ恐いといったところで、
それは生活水準の問題がほとんどで、
死なない程度に生きていくことは
まずこの国においては可能だ。
充分に人を生かす社会になっているのだ。

けれどこれがまた、新たな問題を生んでいる。
生んでいるのだと、ぼくは思う。
そしてそれは「孤独」ではないかと思うのだ。

死ににくくなったということは、
まず間違いのない事実だ。
歴史上、人は今たぶん一番死ににくい。
平均して、みんなが死ににくい。
寿命をまっとうできるという意味では、
これはとてもハッピーな世の中だ。

けれどその一方で、死ににくいということが
たくさんの「孤独」を発生させている。

弱い動物は群れる。
なぜか。
生き延びる確率を上げるためだ。
じぶん、ないし、種が生き延びる確率を上げるために
死にやすい生きものは群れをなす。

ぼくら人間もかつて、死にやすい生きものだったとき、
群れをなして生きていた。
家族や共同体の解釈がもっと広く大きく、
群れをなすことでなんとか助け合って生き延びてきた。

でもそれが今は、一人でも死ににくい社会になった。
死ににくいから、群れをつくる意味が生まれない。
独りでも死なないのだから、いつまでも独りだ。

この世界は死ににくくなった分だけ、
生きにくくなっている部分もあるのだと思う。
食物連鎖の頂点に立ち、種が生き残るのに充分なカロリーを
生産確保できるようになった人間は、
死ににくくなった代償に、孤独になった。
なんだか神話みたいだ。

孤独は人の基本、孤独は人の前提。
それはわかる。
ただ他人と接点のある孤独とない孤独は、どこか違う。

群れようぜ、とは思わない。
でも、じぶんの「弱さ」はもっと出していい気がする。
互いの「弱さ」が人をつなげるはずだから。

イデトモタカ(2014年11月4日)