<じぶんの限界。>

ぼくにはこれくらいが限界だ。
わたしの限界はあれくらいだと自覚している。

そういうとなんだかじぶんのことを深く洞察し、
わかっているクレバーな人、という感じがします。
悪いことにそれを謙虚と勘違いしている場合もあります。
けれどぼくは、とんだ大馬鹿者だと思います。

じぶんの限界をじぶんで決めてはいけない。

ということばを、一度くらい聞いたことがあるでしょう。
誰が言い出したのかは知りませんけれど、
ぼくも「もっともだ」と共感します。
なぜなら、それが本当にクレバーで、
謙虚な姿勢だと思うからです。

じぶんの限界をじぶんで決めているのは、
あるいは悟っている(気になっている)というのは、
ひじょうに傲慢なことに思われるのです。
わたしはわたしのことを熟知している、と。

けれど実際には、いまのじぶんに見えるもの、
聞こえるもの、考えられる範囲というのは、
あくまでも「いまのじぶん」の枠組みの中でのことです。
いい本を読んで、ものの見方が変われば、
明日にでも見える景色が変わります。
いい経験を積んで、価値観に深みが増せば、
その瞬間から思考の内容が変化します。
つまり、人はいつだって、いつからだって、
激変する可能性を秘めています。

それを、いまのじぶんの価値観で、狭い範囲内の思考で、
「じぶんの限界はおそらくこれくらいだ」
なんてわかったような判断をくだすのは、
じぶんのことを甚だ優秀だと勘違いしております。
それはぼくにしてみれば、ひじょうに傲慢な姿勢です。

反対に謙虚な姿勢とは、
じぶんはこれからどういう目にあって、
どういう経験を積んで、本や人に出会って、
どう変わっていくのかわからない。
じぶんの限界は、いまのじぶんには見当もつかない。
いまのじぶんでは見当もつかないところに、
きっとじぶんの限界はある(あるいは限界はない)。
だから、じぶんはこんなものだと、
悟ったようなことは思うべきじゃない。
・・・というものではないかと思われるのです。

じぶんの限界をじぶんで決めてはいけない。
そういった人の本心がどこにあったのか、
ぼくにはわかりようもないですが、
ぼくはそんなふうに解釈しました。

謙虚であれと。
そして、謙虚を履き違えるなと。

イデトモタカ(2015年1月30日)