<中古人。>

洋服の整理をしていました。
少し増え過ぎているなと思ったので、
この冬、あるいはその前の季節に
ほとんど袖を通さなかったものを、
思い切って段ボールにつめて売却しました。
内心は、ほとんど処分する覚悟でした。
(最近は便利なもので、郵送で引き取ってくれます。)

デニムやジャケット、ニット、パーカー、
ダウンなど、全部で11点でした。
きょう、査定結果の電話がありました。
正直まったく期待していませんでした。
昔、古本屋に漫画を売ったとき、
ため息が出るほどの二束三文で、
がっかりした思い出が強かったからです。

けれど、今回はいい意味で期待を裏切られました。
大学生のときに、一所懸命アルバイトをしていた際の
月給よりも多かったのです。
平静を装い「わかりました。お願いします」と
ただ言うことしかできず、値上げ交渉をしようなど、
そんな気には微塵もなりませんでした。
「では、明日ご指定の口座にお振り込みいたします。
この度はご利用有り難うございました」

電話を切ってしばらく、不思議な気もちになりました。
捨てるにはもったいないけど不要だから、
二束三文でも引き取ってもらいたい。
それぐらいの感覚だったのに。
ぼくの「いらないもの」がこれから、
誰かの「大切なもの」や「欠かせないもの」に
なるのかもしれません。
なにせぼくにしても、中古で本を買ったり、
古着の服を買って気に入って着ているわけですから。

そこで思ったのです。
人だってそうだと。
誰かに「もういらない」と捨てられたかと思えば、
別の誰かに「一生もの」として愛される。
誰かを「さようなら」と手放したかと思えば、
その相手が別の誰かと「運命の出会い」をしている。

この世界は、人生は「縁」だというけれど、
ほんとうにそうなのかもしれません。
その時々で「合う」と「合わない」があり、
そういったタイミングも含めて、
この世界は、人生は「縁」なのかもしれないです。

良い悪いじゃない、高い安いじゃない、
かっこいい、かっこよくないじゃない。
じぶんとタイミングが「合う」か「合わない」か。

じぶんを中心に見るのと、縁を中心に見るのでは、
世界の見え方は180度違います。

イデトモタカ(2015年3月17日)