<通過。>

いつだってじぶんが主人公のつもりでいるから、
「わたしを通り過ぎていった人たち」という目線で
過去の日々を見つめてしまいます。
何気なく、さも当然のようにそうしているじぶんに、
はたと気づくのです。

それは事実とは異なります。
主観で人生と向き合っている時点でそれはもう、
色眼鏡を通した世界なのです。
つまり事実ではないのです。
では、完全なる客観の歴史など存在するのかといえば、
答えを持ち合わせてはおりません。

「わたしを通り過ぎていった人たち」は、
実際には「わたしを置いていった人たち」かもしれません。
「わたしについに呆れた人たち」である可能性もありますし
「わたしから身を引いた人たち」なのかもしれません。
なんにせよ、主観では「通り過ぎた」と思えても、
一人ひとりは様々な感情を抱いているはずです。

あるいは、まったくの逆。
こちらが勝手に色々となにかを思っているだけで、
彼らはなにも特別な感情はないかもしれません。
思い上がりも甚だしといわんばかりに。

「わたしを通り過ぎていった人たち」は誰にだっています。
出会ったすべての人と今なお一緒にいるなんてことは、
誰にも可能ではないはずですから。
それは神様でさえ、不可能でしょう。
これまでの人生で出会った一人ひとりといまだにみんな、
たまに連絡を取って、会って、ご飯を食べて、
仲良くやっているなんてこと、できないでしょう。

「わたし」は通り過ぎていくのです。
誰かの人生を、さっと過ぎ去っていくだけの人。
その一人ひとりが「わたし」です。
置いていかれ、呆れられ、人知れず身を引かれ、
忘れ去られるのが「わたし」です。
また、置いていき、呆れ、そっと身を引き、
忘れていくのが「わたし」です。

「わたしを通り過ぎていった人たち」へ。
どうかお元気で。

「わたし」が通り過ぎていったみなさん。
さようなら。

イデトモタカ(2015年4月29日)