<悪魔プレゼン。>

じぶんは「わかっている」つもりの分野で、
親しい人が「わかっていない」状況のとき、
「わかっている」じぶんからすると、
ぜんぜんダメでちっとも良くないものに対して、
「わかっていない」相手が、いいだとか、
ありだとか、肯定的な感想を述べていると、
思わずそれが「いかに良くないか」を
ものすごく真剣にプレゼンしてしまう。

こういうひじょうに残念なシチュエーションを、
ぼくは「悪魔プレゼン」と呼んでいます。

ぼくはよく「悪魔プレゼン」をしてしまいます。
感じ方も捉え方もほんとうは人の自由なのですが、
多少なりとも「わかっている」つもりのじぶんには、
「わかっていない」のに認められている存在が、
じぶんの親しい人にまで受け容れられてしまうのは、
じぶんの居場所やじぶんの人生を、
まるで否定されるような気になってしまって、
ついつい「違うんだよ、それはダメなんだよ」と
お節介どころか厄介な人になってしまいます。

頼まれてもいないのに、訊かれてもいないのに、
この分野ではどういうものが良くて、
どういうものがダメなのかという判断基準や、
歴史や課題などの相手からするとしごくどうでもいい
マニアックな狭い視野の話をぐいぐいとして、
だからそれはダメなものなんだよ、
ちっともいいものじゃないんだよ、
ほらこれが高尚なものでいいものなんだよわかるでしょと、
必死な一人プレゼン大会を開催してしまうのです。

「わかっている」側であるじぶんの価値観を
「わかっていない」側の相手に押し付けて洗脳しようとする。
まさに「悪魔プレゼン」です。

ぼくは映画や小説が好きなので、
なんだこれぜんぜんダメじゃないかという作品を、
とりわけ仲の良い相手や親しい人が肯定的に、
「面白い」だとか「楽しい」だとか「良かった」だなんて
言った日には朝までファミレスで「悪魔プレゼン」です。

ええ、いかんなとわかっております。
やめなければなと思っております。
でもしてしまうのは、きっと恐いからなのです。
じぶんの進んでいる道がダメだと言われているようで。
じぶんの目指していないものが称賛される世の中が。

そうかそういう見方もあるのか、そういう意見もあるのかと、
受け容れられる広いこころが持てたとき、
悪魔はいなくなってプレゼンする必要もなくなるかしらん。
ぼくにはまだ少し先だなあ。

じぶん色に染めたいのは欲求であるけれど悪魔的。

イデトモタカ(2016年3月12日)