<洒脱さ。>

過去のじぶんを反省したり、
恥ずかしくなったりするとき、
思い返してみると、それらはみんな
「力んでいた」に集約されそうですぼくの場合は。

言葉遣いでもそうですし、
ファッションやお洒落でもそうです。
立ち居振る舞いから、あらゆるものごとへの姿勢。
それらが、力んでいたなと実感するときに、
ああ、わずかでも成長したのかしらんと、
思われたりします。

不思議なもので、「力み」とは見えるものです。
視覚化されるものです。
だからこそ逆説的に、力んでいない人を見たら、
あの人は「慣れて」いるのだなと感心します。
それは伝わってくるじぶんとの差や、
実力のように感じられます。

「真剣」であることと、「力み」とは、
似て非なるものです。
真剣であることが、必ずしもすべてにおいて
100%の力を出すこととは限りません。
がちがちに、全身に力を入れて走っている人を見て、
あの人は真剣だとはなかなか思いにくいものです。
そして事実として、そういう具合で走っても、
決して速くはありません(かなり控え目に言って)。

ファッションでも、力の入れ具合がわからない人は、
靴も、ズボンも、ジャケットも、鞄もみんな、
力いっぱいのものを着てしまいます。
その姿を見せられた方は、声をかけるのが困難です。
一方、力みがなく、うまく全体の調和をとりながら
お洒落に見える人がいます。
むしろ、真にお洒落な人というのは、
ごくごく自然体であります。
だからといって、彼(彼女)が真剣ではない、
ということにはなりません。
ここが肝心な部分です。

先に「力みは見える」と述べました。
世間一般に知られた、肩に力を入れて持ち上げ、
すとんと力を抜いて落とす、という、
力みや緊張の抜き方があります。
これは非常に有効です。
一日に数回、意識的に行うだけで、
無駄な力みが失われていきます。
そしてそのうちに、なにごとに当たるにしても、
真剣でありながら、力みなく挑めるようになります。

昨日は青春の話をしましたが、
そういえば青春は、とても力んでいますね。
そこがいいのですけれど、だからこそ凝りがしこりになり、
ごろごろと、日常を複雑にするのかもしれません。
力抜いていきませう。

イデトモタカ(2016年10月20日)