<服装ュニケーション。>

意識しない服装は、
じぶんは「どういう人か」を伝えます。

意識された服装は、
じぶんは「どうありたいのか」を主張します。

これは、見ればわかることです。
この人は、こういう人なのだろうなということと、
この人は、こうあろうとしているのだなということは。

ぼくの服装は、そうですね、
7割くらいが「どういう人か」を伝えていて、
残りの3割は「どうありたいのか」のメッセージとして
機能しているように思います。

同じ服装しかしない人は、
似たような具合ではないでしょうかね。

ただこの、「どういう人か」という服装と、
「どうありたいのか」という服装の
意識の線引というものは、なかなかに曖昧です。
先に「見ればわかる」といっておきながら、
曖昧だというのは矛盾しますけれど、
わかる、といえばわかるし、曖昧だ、といえば、
そうだな曖昧だなという感じです。

たとえば、「モテたい」というテーマで
服を選んで着ている人というのは、
「モテたい」人なのだな、とわかります。
そういうメッセージは服装から伝わってきます。
一方で、「モテる人でありたい」という、
未来への希望として、願望としての主張も
受けとることができます。

でも、服装に頓着のない人の服装は、
「服装に頓着のない人だ」ということは判然としますが、
「服装に無頓着な人でありたい」と望んでいる
というふうにはふつう受けとりません。
ここが、むつかしい部分ですね。

なんだか、ごわごわした話になってしまいましたが、
服装は意識しなければ「どういう人か」を語り、
意識次第では「どうありたいのか」を主張するものに
成り得るのだということです。

あるいはその先に、なにも感じさせず、
ただただ「かっこいい」という世界もあるのかもしれません。

イデトモタカ(2016年10月30日)