<ことばという容れ物。>

ぼくらはまず、母親から、先生から、
ことばという<容れ物>をもらいます。
それは枠組みのようなもので、
中身がなくても、使い道さえ知っていれば
ふつうに使用することが可能です。

その後、もらい受けた<容れ物>をもって、
時には使って、様々なことを見聞き経験し
<中身>がどんどん埋まっていきます。
一回で満タンになる<容れ物>もあれば、
数回、数十回かけて徐々に埋まっていき、
ようやくぴったりハマるものもあります。
そうやって、満タンになった<容れ物>のことば、
それが「じぶんのことば」として
ほんとうに<使える>んじゃないか、と思うのです。

「ことばの解釈は人それぞれ」だとか、
「ことばは絶対に誤解を生む」だとかは、
<容れ物>が一緒でも、経験や知識からくる
<中身>が必ず違うから起こること
なのではないかしらん、と感じております。

この、中身がちゃんと詰まった<容れ物>こそが、
「じぶんのことば」なのですけれど、
それを増やしていくことが、ぼくは
「すてきなこと」だと思っています。

むやみやたらに<容れ物>である
枠組みだけをどんどん仕入れていっても、
それは無意味ではないにせよ、
「じぶんのことば」として使えないまま、
仕舞いには「じぶんの話すことば」の中の
「じぶんのことば」の割合が、
どんどん減少していって、
空っぽの話をする人になるのではないか、
と思います。

とりわけビジネス界で量産される
新しい<カタカナ語>。
それを知っていなければ、
<勉強不足>扱いをうけそうな風潮がありますが、
「じぶんのことば」にならないうちに
そういった<カタカナ語>を乱用し、
「よくはわからないけど便利なことば」として、
じぶんの中に蓄積されていくと、
いつしか語彙が<カタカナ語>ばっかりになり、
ぼくとしては、
「よく喋っているけど、なにもいってない」
というふうに感じてしまう人になる恐れがあります。

できるだけ「じぶんのことば」で話し、
かつ「じぶんのことば」を増やしていく。
どうやって増やすのかというと、
やはり「ものごとを深く考える」こと
だと思うんですよね。

そういえば、ぼくが<賢いひと>だと
尊敬する方々というのは、みなさん共通して
<やさしいことば>で話されます。
それはきっと、「じぶんのことば」だけを
信用しているからなのではないか、と
書きながらそういう気がしてきました。

ことばというのはあくまでも<容れ物>で
じぶんが詰めた<中身>が伴って完成するもの
だという認識は、もっていても、
きっと損はしないと思いますよー。

イデトモタカ(2010年9月5日)