no.7 『インターネット的』 著:糸井重里(1) cart

一 節

インターネットは、「伝える仕組み」です。
いわば、人間の生み出す情報という「料理」を
すばやくどこにでも届ける「お皿」です。
ほんとうは、一番面白いのは、
お皿に何をのせるかということのはずです。
お皿自体には、ぼくはあまり興味がないのです。

感想文

インターネット黎明期は、そもそもお皿を用意することが
一般人にとっては敷居の高いことでした。
その後少しずつ、初心者や学生でも簡単に作成できる
ホームページ制作サービスやブログサービス、
ソーシャルネットワークサービスが現れてきて、
お皿(見映え)の差というものがなくなっていきました。

今ではお金のある人もない人も、
一般人も有名人も、たいして変らないクオリティーの
お皿でもって勝負できるようになりました。
このことは多くの機会を生み出しましたが、
同時にその数倍もの「不味い料理」も産出しました。

テレビの時代は終わった、という人がありますが、
インターネット上で多くのアクセスを集めるものは、
そのほとんどが「テレビの延長」にあるものです。
おもしろかった番組の動画や、
いいなと思った歌の歌詞を検索できるページ、
CMで観た商品の感想や値段を比較できるサイトに、
好きな有名人の私生活をのぞけるブログだったりと、
アクセス=需要のあるコンテンツはまだまだテレビからの
「おこぼれ」なのだというのが、実際ではないかと思います。

これはどういうことかといえば、一つには、
おいしい料理、満足する料理は、素人にはなかなか作れない
ということなのだろうと思います。
テレビ番組の制作者は、いわばプロの料理人です。
扱える素材もいいし、盛り付けにも技があります。
なにより、そういう訓練を受けている人です。
この一流の料理に素人が対抗できるかといえば、むつかしい。
豊富なアイディアでもって、なんてことない食材を使いながら
プロも驚く料理をつくるということは、
不可能ではないながらも、やはり腕のいることです。
もし、そういうことができる人がいたとするなら、
その人は実力がありながら機会がなかっただけなのでして。

お皿が手に入ったからといって、
なにか料理をのせなければいけないわけでもないし、
いいお皿だから、じぶんの料理がおいしくなる、
ということもありません。
インターネットという道具は「拡声器」のようなもので、
一人の出せる「声」が大きくなりはするのですけれど、
話している内容が変わるわけではないのです。
つまらないこと、不愉快なことが大きな声で聴こえてきて、
なんだか気分が悪くなる、といった「不味い料理」による食中毒も
日夜さまざまな場所で起っているように思います。
(もちろん逆もあるけれど、実感としては少なそう。)

お皿になにをのせるのか。
このことを、ぼくもあらためて深く考えてみたいと思います。
現実世界でも「食べる人」の数は全員ですが、
おいしい料理を「つくる人」の数は、うんと、少ないわけでして。
無料で手料理を振る舞えるからといって、
つくらなければ損!というわけでは、ないですからね。
手軽に料理のたのしさが味わえる、というのはいいことですが、
その行きつく先としては、本格的に料理の腕を磨くのか、
そうでなければ「やっぱりプロはすごいなぁ」と、
また「食べる人」に戻るのが、よいのではないかしらん。

気分転換に料理をするのを、当然否定はしませんが、
それぞれじぶんの人生がありますからね、
あんまりよそ見はせずに、そこに集中することが、
本当はいいのではないかという気がします。

イデトモタカ(2013年3月23日)

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