no.13 『評価と贈与の経済学』 著:内田樹/岡田斗司夫(1) cart

一 節

いましている努力に対して
未来の報酬が約束されていないと働く気がしない
という人が増えてきたけどさ、
いましている努力に対して
未来の報酬が約束された時代なんて、
これまでだってなかったんだよ。

感想文

なぜ「努力」と「報酬」は相関しないのか。
この興味深い問いに、ぼくなりに対峙したところ
「座標差」と「実感(感度)」という二つのことばが
重要そうだと浮かび上がってきました。

まず、努力というのは行動であり、
つまり「エネルギー」です。
報酬はそれに対する「反動」だとします。
仮にそうであるならば、必要量のエネルギーを与えれば、
相応の反動を期待することができるはずです。
けれど、実際は、そうはならない。

北の森に行った人は、
朝から晩まで十時間以上も狩りに出たけれど、
ウサギ一匹捕らえられなかったのに、
南の森に行った人は、
お昼過ぎに出発して一時間もしないうちに
イノシシを捕らえられるかもしれない。
そういうことは、原始の時代からあった理不尽です。
けれど、これは理不尽ではなく「座標差」なのです。

じぶんが「どこ」で、エネルギーを発するのか。
それはそれぞれに、みんな違うのです。
同一の場所(座標)は存在しませんから、
おなじ行動(努力)をした人がみんな、
良くも悪くもおなじ結果が得られるとは限らない。
これを昔の人は「縁」と呼んだのだと思います。

原因があって結果があるから、因果。
そういうふうにシンプルに考えられればラクですが、
現実生活ではその数式はほとんど役に立たず、
因と果の間には「縁」があると知ることになります。
ぼくはこれを発見したのでなく教わりましたが、
まったく、そうだなぁと思います。

もう一つの「実感」ということに関して想うことは、
つまり「わからない」ということです。
わからないもの同士の取引なので、
目にはひじょうに見えにくいという性質があります。

じぶんのほしい報酬に対して必要な量の努力を
じぶんは果たしてしたのかどうか。
あるいはいま、どれくらいの努力がたまっているのか。
そんなのはわかりません。
同時に、達したのか達してないのか、もそうですが、
じぶんは報酬を受け取ったのかどうか、ということも、
実はこれもわからないものじゃないかと思うのです。
つまり、本人の感度によるぞ、と。

報酬はなにもお金やモノや、
そういう目に見えるものだけではありません。
むしろ見えないもののほうが、価値深かったりします。
もしそうであるとするならば、なおさら、
じぶんのどれくらいの努力が、
どんなものとして返ってきているのかなんて、
わっからないぞーです。

ということは、逆説的になりますが、
「いつ、どこで、どれくらい、どんなふうに、
 かはわからないけれど、努力は必ず報われる」
と信じて待つほかないように思われます。
このとき、なにを信じるのかといえば、
じぶんのした努力であるべきだと思うのです。
神様ではなく、ね。

まとめると、努力というものは、
個々の座標によっても大きく意味や価値を変えるので、
簡単に原因と結果という式にはならない。
そして努力と報酬というものは、
互いに目に見えないもののやり取りなので、
本人の「実感」が問題になる。
感度のいい人は努力したそばからその報酬を
あるいは何らかのカタチで感じる(=受け取る)
かもしれないし、感度の悪い人は
いつまでも実感できないでいることになる。

少し話し足りませんが、冒頭のことばを受けて
ぼくはこんな感想を持ちました。

イデトモタカ(2013年6月4日)

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