no.16 『逃げる中高年、欲望のない若者たち』 著:村上龍(1) cart

一 節

ユニクロの服を着て、
ABCマートで買ったスニーカーを履き、
ニトリの家具のあるアパートに住んで、
マクドナルドやサイゼリヤで食事し、
ヤマダ電機で買った薄型テレビとパソコンで遊ぶ、
そういった生活はおそらくわたしが学生だったころより
数百倍快適だろう。

だが、何かが失われるような気もする。
それが、失われてもいいものなのか、
それとも失われるとやばいものなのか、
それはまだわからない。

感想文

ゆとり世代だとか、デジタルネイティブ世代だとか、
いろんな呼び方や括られ方がされますが、
ぼくを含めて今の若い人、30歳にならないくらいまでの
人たちに共通して言えそうに思えることは、
この国の一体感のない時代に生まれて育った、
ということなのではないかしらん。

まったくない、とはいえないでしょうけれど、
かつてこの国にあったような、強烈な何かには、
触れていないような気がします。
戦争、高度経済成長、バブル、それらはもちろんですが、
みんなが必ず観るテレビもドラマも少なく、
聴く音楽もばらばらで、ゲームや漫画もそれぞれで、
流行語大賞なのに聞いたことがない言葉ばかりだったりして。

モノがない時代では、みんな足りないから買いました。
買い物が段階的に行われていたはずです。
まず、テレビを買おう。
そしたら次は洗濯機で、掃除機で、エアコンで、
電子レンジで、おっ、カラーテレビってのが出たのか。
そうやって、足りないものを段階的に求めていって、
それらをどのくらい持っているかというのが、
そのまま社会の階層性を生み出していて、
ついにやみんながそれを持ったときに、
一億総中流社会というやつになったのでしょう。
つまり「足りない」をベースとした社会階層が
消えていったのでしょう。

そしてそれは同時に、「足りない」を土台とした
欲求が消えていったということのようにも思われます。
今、ぼくらの「買う」は、基本的に「買い換える」です。
満足していないや、もっといいのが欲しいはあっても、
社会から取り残されるほどにまったくないや、
足りないは、ほとんどないです。
好きなもの、興味のあるものが欲しいものになります。
であるならば、それらは多様で当然ともいえます。

そうなると、やっぱり欲求だって変化するのが妥当です。
海外の高い時計や車、地位や名誉、モデルのような恋人、
高級レストランでの食事より、
自由な時間、じぶんらしいライフスタイル、
充実した人生や熱中できるものの探求といった、
外からはわかりにくいものの方が、
実は手に入れるのが困難で、魅力的かもしれません。

ただ、そのなかで失われているかもしれない
先代的なわかりやすい欲求のなかに、
手放してはいけない大事なものがあるのか、ないのか。
それはやっぱりぼくにもわかりませんでした。
わかるのは、ここで国力の話を持ち出すのは筋が違うし、
幸福感を得ている人が増えているのなら、
それは否定のできるものではないということくらいです。

蛇足ですが、ぼくは逆張りが好きなので、
むしろそういったわかりやすい欲求を持ちながら
生きていこうという思いもあります。
その道中で得られた経験や見えた景色というのは、
つまり同世代では稀有なものだということですしね。
そういうのは、個人的におもしろそうで惹かれます。

イデトモタカ(2013年7月29日)

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