no.21 『ヴィヨンの妻』 著:太宰治(1) cart

一 節

私は格別うれしくもなく、
「人非人でもいいじゃないの。
 私たちは、生きていさえすればいいのよ」
と言いました。

感想文

この台詞は吉本隆明さんの、
「泥棒して食ったっていいんだぜ」
につながっているように思えます。
じぶんのことしか考えてない奴はだめな奴だ、
程度が低い人間だと、
世間からよくできた人物だと言われている人ほど、
そういったことを説いているような気がします。

けれど、昔ほどではないにせよ、
「生きる」ということは大変なことです。
いろんな制度があるとはいえ、
ずっと生きていくということは、
楽なことではありません。
その過程のどこかで、どうしようもなくなって、
これはいよいよもうだめだぞというときに、
どちらのことばの方が人を救うのかといえば、
どうにもぼくには偉い人のお説教や箴言よりも、
先の太宰治のことばではないかと思うのです。

それはもう、いい、わるいではないというか、
そもそも「生きかた」に、いい、わるい、
があるのだろうかということになってきます。
いい生きかた、わるい生きかたというものはある、
と考えるほうが、思考としては簡単かもしれません。
なんだか、確かにそんな気がするからです。
けれど、ほんとにそうか、
ほんとのほんとに、そうなのか、あるのか、
と問い詰められたなら、ぼくはわからないと思います。

いい生きかたにせよ、わるい生きかたにせよ、
こういうのが、いい生きかたですよ、
こんなのは、わるい生きかたですよ、というのは、
けっきょく誰かが言い出したことでしかありません。
それっぽいことを言い、そう言われればそうだと、
多くの人が賛同したに過ぎないのでしょう。

生きやすい生きかた、人から感謝されたり、
応援される生きかた、そういうものはあるかもしれません。
けれど、それだけが「生きる」ということ、
つまり「生きかた」ではないぞとは、思いたいのです。

自殺というかたちで人生を締めくくった太宰治ですから、
「人非人でもいいじゃないの。
 私たちは、生きていさえすればいいのよ」
という台詞は、皮肉にも取れないことはないのですが、
それでも、総体的に言いたかったことの中心にも、
ぼくなんかには思われるのでした。

イデトモタカ(2013年10月7日)

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