no.25 『あなたを天才にするスマートノート』 著:岡田斗司夫(1) cart

一 節

考える、ということは
「間違っててもかまわないから、
 自分なりの結論を持つ」ということです。
間違うことを恐れて、頭のいい人の意見ばかり
聞いていては、頭は良くなりません。

感想文

それは本当に、じぶんが言えることなのか。

以前にも増して、じぶんの意見や発言に対して、
そう思うようになってきました。
口を開くということは簡単なのです。
なにか意見を求められたり、
多くの場合は意見なんて求められてもいないのに、
なにか言えそうなことがあったときに、
人は頭に浮かんだことを口にします。
ぼくもそうです。

けれど、そのときのそのことばは、
本当にじぶんが言えることなのかと省みると、
果たして怪しいところがずいぶんとあります。

じぶんが言えること、というのはつまり、
人生経験から、たしかにそうだという結論なり、
思いなりがあるということです。
もしくは、そのことについて真剣に考えたことがあり、
現在のじぶんの結論としては、こうなった、ということです。

反対に、そうではないこと、
じぶんが本来言えないことというのは何かといえば、
それはどこかで聞いたり、知っただけのことです。
厳しい提案かもしれませんけれど、
そういう知見以前の情報は、
じぶんのなかで「なるほど」とストックしていく分には
とてもよろしいと思うのですが、
他の人に話すには早い気がします。
ぼくもよくやってしまうので、
われながら説得力が薄いのですけれど。

「考える」ということは、そのテーマなり問に対して、
(現時点での)じぶんなりの結論を出すということ。

これは、考えるということばについての、
ひじょうにいい定義だとぼくは思います。
世の中には「いい考え」だなぁと感心する他の人の考え、
つまり他の人の出した結論がたくさんあります。
それに同意したならば、その考え(結論)を
そのまま丸ごと拝借いたしまして、
じぶんのものにすることは可能です。
それは、学習時間の短縮にもなります。

けれど、本来そうすることの意味は、
じぶんの考えるべきテーマ、問に対して、
向き合って考えるためなのではないかと思います。

頭が良くなることが大事かどうか、重要かどうかは、
人それぞれの価値観かもしれませんが、
「間違っててもかまわないから、自分なりの結論を持つ」
という姿勢、考えるという行為への態度は、
誰しもにとって重要なことだなぁと実感します。

イデトモタカ(2013年10月31日)

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