no.38 『思考の整理学』 著:外山滋比古(1) cart

一 節

いまの日本人は
おしなべてことばの教養が不十分で、
ものをよく考えないから、
あいまいなことをカタカナ語で誤魔化して
恥ずかしいとも思わない。
自前のことばがないとすれば、
借りてくるほかないが、
それを恥じる心をなくしては困る。

感想文

「恥じる心」は間違いなく、
「向上心」のひとつのパーツに思われます。
これじゃいけない、こんなのはいやだ、だめだ、
ええいおれも(わたしも)もっと、
そういった内部の反発力の根源は
たいてい「恥じる心」にあるのだと思うのです。

偉人と呼ばれるような人たちの
伝記を読むといいといわれる所以も、
いまのじぶんと比べて「恥じる心」を感じ
ただ劣等感を得るのではなく、
一歩でも「なにくそ」と行動を変えようと試みる、
向上しようと奮起することに
大きな価値があるような気がします。

つまるところ問題なのは、
「恥ずかしいとも思わない」こと、
麻痺して、こころが鈍感になることです。

こころを常に敏感に繊細にしておくことは
意識しなければ簡単なことではないかもしれません。
けれど、麻痺させて「恥じる心」を感じない
鈍感なこころにすることは、造作ないことです。
つまり、
「じぶんなんて」と常々口にしていればいいのです。

じぶんは「なに」に対して「恥じる心」を感じるのか。
それがじぶんの「ノビシロ」なのかもしれません。
友人や後輩に食事をご馳走になることに
「恥じる心」を感じるならば、
そこにじぶんはもっとがんばりたいという気持ちがあり、
まだまだ向上しようという気がある、といえそうです。

人と話をしているときに、ふと、
じぶんの意見と思って喋っていることが
よくよく考えてみると全て誰かのいったことや
書いてあったことの「借り物」だと気づき、
「じぶんのことば」がちっともないことに
「恥じる心」を感じることができたなら、
そこに成長のノビシロがあるといえると思うのです。

あるいは、フィギュアスケートの選手をテレビで観ていて、
じぶんはあんなに上手に氷上でスピンができない、
と「恥じる心」を得る人はほとんどいないでしょう。
だからそこには、ノビシロはないわけです。
けれど、あんなに若い子が一所懸命に大変な練習をして、
多くの人を感動させているのに、ぼく(わたし)はどうだ、
という「恥じる心」を持つことはできるかもしれません。
そして、それができた人には、
その人なりの生き方へのノビシロがあるのだと思うのです。

これまで、「ノビシロ」が「ある」とか「ない」
という言い方をしてきましたが、
実際はみんな「ある」わけです。
ただ、それを「認める」か、「注目する」が問題で
ある意味で「じぶんはまだまだなのだ」という謙虚さが
いつまでもじぶんを向上させてくれるような気がします。

「自信」を持つこともとても大事なことですが、
「恥じる心」を持つことも、ぼくには大事に思われます。

イデトモタカ(2014年3月12日)

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