no.40 『寝ながら学べる構造主義』 著:内田樹(1) cart

一 節

私たちは自分を個性豊かな人間であって、
独特の仕方でものを考えたり感じたりしている
つもりでいますが、その意識活動の全プロセスには、
「ある心的過程から構造的に目を逸らし続けている」
という抑圧のバイアスがつねにかかっているのです。

感想文

「じぶんのことは、わからない」といいます。
この答えにあたる理由が、つまり今回引用した
冒頭の少しむつかしい一節なのだと思います。

まったく恥ずかしい思い出ですが、
中学生や高校生のときの思い違い度100%の
ファッションは、なんだったんでしょうね。
ぼくは幸か不幸か中高と制服でしたから、
私服への目覚めのようなものは
一般的な男子よりも遅かったのではないかと思います。
ましてオシャレ男子や人並みに雑誌を読んでいたりする
女の子の目からすると、それはもう相当に
「わかっていない感」が強かったはずです。

でも当時のぼくには、「それが」わからないのです。
じぶんの服装がどう思われているのか、
他の人はじぶんの服装を見てどう感じているのか、
そのネガティブな事実に対して
ぼくの無意識は必死になって、
ぼく自身にひた隠しにしていたのでした。
つまり他人の目から見た「本性のぼく」を、
ぼくだけが知らないということになります。

そうはいっても、いまのきみは、そんなじぶんのことを
よくよくわかっているじゃないか、
と思われる人もあるかもしれません。
けれどそうではないのです。
当時のぼくに対しては、ぼく自身も他人でいられますから
多少はわかっているつもりでいます。
でも「いまのじぶん」のことはといえば、
残念な服装と同様に、じぶんだけがわかっていないという
恐ろしくも仕方のない本性が、わからないでいます。

例えばみんなが「イデトモタカはもう正直飽きたよね」
と思っていたとしても、そしてそのような発言や
振る舞いをしていたとしても、当の本人は、
つまりはぼくは、そういったヒントをことごとく
(無意識的に)無視しているはずなのです。
それは「受け容れたくないこと」ですから。
見えなくしてしまっているはずなのです。
だから、ぼくだけが、ぼくの正体を知らないのです。

客観的な、正常な世界を見ているつもり。
じぶんの見ている世界が、この世界そのもの。
つい人はそんな勘違いをしてしまいます。
けれどそういうことはあり得ないのです。
必ずどこか、なにかを、「見ないように」しています。
その結果、世界が大なり小なり歪んでしまいます。

でもそれは仕方のないことです。
であるならば、ぼくらにできることというのは、
せめて人の話を真摯に聞くということかもしれません。
じぶんのことを裸の王様だと教えてくれる友人や家族を
大事にすることなのかもしれないと思うのでした。

イデトモタカ(2014年4月7日)

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