ESSAY

2019-10-21

ケガレとの。

人生には「ハレ(晴れ)」の日と「ケ(褻)」の日があって、でもほとんどは「ケ」の日です。おなじような、繰り返しの日々です。けれどそればかりでは、滅入ってしまって、参ってしまって、こころが曇りやがて雨になってしまう。気もちが枯れてしまう。ここから「ケガレ(褻枯れ=穢れ)」ということばが生まれた、という説もあります。

「ケガレ」ずに生きるためには、ときおり人生に「ハレ」を用意してあげるのが智恵であり英気でありますが、とはいえ人生は「ケ」を中心にできています。そればっかりは、どうこうできるものでもありません。次の「ハレ」を待ち望み、次の「ハレ」のことばかり考えて過ごすより、いかに日々の「ケ」の充実と充足を、目指すかを考えるほうが、ぼくは有効なのではないかと感じています。

ぼくはお祭り人間ではないですが、寂しがり屋ではありますので、すぐに「ケ」の日でも「ハレ」の日っぽくしたくなります。誰かを呼んだり、誰かに連絡をしたりして、なんでもない日を「ハレ」の日の偽物のようにして、寂しさを、ひいては孤独を、まぎらわそうとする癖があります。これは悪癖であると自覚しております。

なにかを生みだそうと思うのであれば、それこそ「ケ」をものにしなければいけません。衝動によって生まれるものばかりではないからです。むしろ忍耐を必要とするような、忍耐とそして孤独を材料とするようなもの、ばかりではないかと思います。

「ケ」の日の達人になる。それこそが人生の達人になる道である。頭ではわかっているのに、なかなかできやしないのは、やはりなにかが欠けているからなのでしょう。あるいは多少なりとも、幸せだからかもしれません。幸せも、いいことばかりではないのです。

では、また書きます。
雨ですね。ぼくはかまいません。

イデトモタカ