サヨナラと、エッセイだけが、人生だ。

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大人的な調整

牛タン屋で遅い夕食をとっていたら、後ろの中国人らしき家族連れがやけに騒がしかった。とはいっても騒いでいたわけではなくて、地声が大きかったのと、子どもの発声が基本的に大声(全力)だったのだ。中国人がどうとかマナーがどうとか言いたいわけではなく、そのときに改めて、子どもは「調整」ができないのが一つの特徴なのだと気づいた。記憶をたどってみても、どこの国など関係なく、子どもはいつも全力だ。移動は走るだし、声は最大ボリュームしかない。

そう思うといろいろと合点がいく。生まれたばかりの赤ちゃんに、声の大きさを抑えて泣く子なんていない。夜泣きするにせよ、電車のなかでぐずるにせよ、声のボリュームを「調整」するなんて概念はない。少し大きくなって、歩けるようになってもそうだ。そこに慎重さはなく、思い立ったら走る。なにかを見つけたら叫ぶ。ちょうどいい速さで移動したり、目的を達成するために必要十分な声にとどめることはない。

でも大人は違う。大人は「調整」する。ふつうに歩いていたら電車に遅れそうだけれど、走るほどではないというとき、絶妙な早歩きをする。飲食店で店員を呼び止めるとき、店の混雑具合によって声の出し具合を何段階か使い分ける。一般に、そういった「調整」が下手な人やできない人は馬鹿だと思われる(子どもの場合は未熟だとみなされる)。

つまり、成熟には「調整」が要素として含まれているようだ。たしかに、在庫の補充にせよ、料理の盛り付けにせよ、デザインにせよ、会話にせよ、「調整」が下手な人の評価はすこぶる低くなる。言い換えれば「調整」できることが「大人的」なのだ。だから逆に、意図があろうがなかろうが、極端に「調整」できていないものを目にしたり耳にすると、笑いが生まれたり、驚きや感動が発生したりする。一方で神業的な「調整」にも、ぼくらは敬意を払う。

騒がしい店内で牛タンを食べながら、そんなことを思った。(796文字)

では、また書きます。

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