COLUMN

2020-05-05

本を読まなくていい人種。

 読書は絶対。永らくそれはぼくの信条だった。本を読むということは、宿命に抗い、運命を変えるということ。人生を、じぶんの力で拓くということ。だから本を読まなければならない。本から学ばなければいけない。今でもその考えの根底は揺らがない。

 人は生まれる場所を選べない。生まれる時代も、親も、国も、容姿も、なにもかも。変えられないもの。それを人は宿命と呼ぶ。宿命に従い、現状に無抵抗だったときに訪れる未来。それを運命という。幸いにして運命は変えられる。意志の力で。では、宿命は?

 環境の生きもの。それが人間だ。パスカルは人を「考える葦」と形容したけれど、考えるもと、素材となるのは環境だ。周りの自然、空間、五感、それから人の発言、行動、いろいろな姿。とりわけ子どもにとって、環境を変えるのはむずかしい。だから考えを変えるのもむずかしい。なにもしなければ、近くの大人に似た人間になる。

 ぼくはそれを否定したかった。運命の輪から抜け出たかった。両親はいい人だし、愛してももらえたけれど、違う道を歩みたかった。ともだちもみんないい奴だったけど、ぼくは違う場所に行きたかった。たとえ一人ぼっちになっても。だから本を読んだ。

 物理環境は選べなくても、脳内環境は選べる。本を読んでいる間、ぼくはここにいない人のことばを聞く。ここにいない人の考えを知り、ここにいない人が見たものをぼくも見る。「考える葦」は、違うことを考えられるようになる。違う意志を持つ。

 そうして実際に、ぼくの人生はひらかれた。本を環境として、わずかばかりでも宿命を超えてきた。そういった自負が、ぼくを支え、当然のように「読書は絶対」と信じさせていた。でも、世間は広い。本を読まなくてもいい人種がいることを知った。

 本を読まなくてもいい人種に、ぼくはこれまでに二人しか出会っていない。ともに女性だったのだけれど、端的に言えば、彼女たちは「運命を変える必要がない」人たちなのだ。「宿命に祝福されている」と言ってもいい。

 ぼくが何千冊もの本を読んで知り得たことを、当然のように親から教えられている。人生を塞ぐほどの因縁はなく、特別に知り得なければならないこともない。親や周囲の教育が、本なのだ。読みきれないほどの本を、幼少期から授かっている。

 彼女たちは、本を読む必要がない。読んでもいいし、読まなくてもいい。読まなくても恵まれた人生をおくれる以上、「絶対」とは言えない。ぼくは本を読まなければ、どうにもならなかった。ぼくの「絶対」は、彼女たちには「オプション」なのだ。

 認めるのが悔しいとは思わなかった。世界は不平等なのだ。読書でその差が多少なりとも埋まるのならば、ずいぶんいい世の中になったというほかない。彼女たちはぼくの文章を読むことはないだろう。知っていることが書いてあるだけなのだから。

イデトモタカ