COLUMN

2020-05-09

ストーブの衝撃。

 ぼくにとってストーブは特別なものだ。熱を発して部屋や体を温めるストーブも、料理でつかうフランス製ホーロー鍋のストウブも。今日は暖房器具のストーブの話。出会いはいつかわからないけど、あるきっかけが生まれたのは、もう十年以上昔の冬の夜のこと。

 当時の実家のぼくの部屋は和室で、窓のすぐ隣に勉強机があった。小学校に入るときに買ってもらった、茶色の机。テーブル部分を持ち上げると折りたたむことができて、上には本棚が、下にはたくさんの抽斗がついていた。一番上の抽斗にはカギを差せて、秘密にできた。イスは背もたれのついているものの、ほとんど箱。お尻の下が空洞になっていて、そこにもモノを収納できた。足元のマットは長らくスーパーマリオだったけれど、ずいぶんと前にただの透明なシートになった(イスは大学を出てしばらくは無印良品の黒い肘掛けつきのものにかわった。仕事が順調になってからはアーロンチェアになった)。

 窓にはもともと障子がはられていたけれど、いつの間にやらただの木枠になっていて、カーテンもついていなかった。だから冬はとてつもなく寒い。窓から外の冷気が恐ろしく入ってくる。(ぼくはばかだったので)障子をはったりカーテンをつけるという発想はなく、いつも毛布にくるまったり、足湯をしたりして寒さをしのいでいた。もちろん電気ストーブもつけて(夏場も日差しを直に受けていたので、歳をとった今、顔の片側にだけシミができてしまった。ぼくはほんとうにばかだった)。

 ストーブ以前に、ぼくはあたたかいものが好きだった。ホットココアとか、毛布とか、カシミアのマフラーとかセーターとか、足湯とか、ラーメンとかカレーとか。電気ストーブはすぐにあたたかくなるのもよかった。真夏以外の季節だと、ぼくはけっこういつでも電気ストーブをつけたくなる。それが母親には理解できなかったようで、見つかるとひどく叱られた。ひとり暮らしをはじめるとき、ぼくはずっと使っていたストーブを持っていった。今はたぶんもっといい製品があるのだろうけど、気に入っているのだから仕方がない。ひとり暮らしをしてよかったことの一つは、間違いなく、いつでもストーブをつけていいことだ。

 前置きがずいぶんと長くなってしまったけれど、ある冬の夜、いつものように電気ストーブにあたって本を読んでいると、突然、それこそ陳腐な喩えだけれど、雷に打たれたように衝撃が走った。「時間がみえた」のだ。たぶん継続とか持続とか連続とか、そういったテーマの本を読んでいるときだった。ぼくにとって、これまで時間は線として感じていた。あるいは途切れることのない流れ。それがそのときは、点にみえた。デジタルの画面で、直線をどんどん拡大していったとき、連続したドット(点)であることがみえるかのように。

 ぼくが愛用していたのは電気ストーブだったけれど、電気も時間のように、絶えず流れているもののイメージだった。というか、それまで真剣に考えるテーマではなかった。コンセントに差せば、電気はすぐに供給されて、コンセントを抜くまでずっと電気は流れつづけているもの。実際にそうなのだけれど、時間を点と捉えると事情が変わってくる。

 例えば、コンセントから電気ストーブに送られる電気が、1秒ごとにオン・オフが切り替わったとすると、いつまで経っても、きっとストーブはあたたかくならない。言い換えれば、ストーブはストーブとしての役目を果たさない。電球や照明だってそうだ。空間を(持続的に)明るくするという効果が期待できなくなる。ガス(火)でもそうだ。コンロのガスがオンになったりオフになったりしたら、まともな料理なんてできっこない。

 なんの話をしているのかと思われるかもしれないけれど、時間は持続的に流れているものであって、点の無限の連続のようなもので、そして電気もガスも水も(流れが)継続されているからこそ、意味があり、意味がうまれる。そう思った瞬間に、これまで「継続は力なり」ということばが苦手だったぼくは、震えてしまった。継続、持続、連続しなければ、価値はうまれないことを知ったのだ(そうでないものもあるかもしれないけれど、大半のものはそうだ)。

 それからぼくは、人がかわったように、つづけることを大事に考えたり生きたりするようになった。おおげさだけれど、ストーブが教えてくれた。ストーブとコンセントをつなぐコードのなか(を流れる電気)が、点の連続にみえたことで、ぼくの価値観は一変した。十年以上経ったいまでも、ぼくはストーブをつけるたびに思い出す。正確には、忘れないように思い出す。持続が価値をうんでいるのだと噛みしめる。毎日みている電気でもそれは感じられるのだけど、ぼくはストーブからのほうが感じやすい。なにより、あたたかいのがいい。

イデトモタカ