サヨナラと、エッセイだけが、人生だ。

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カシミア広場。とはなんだったのか?

気づいていた人は多かったと思うけど、口にした人は驚くほど少なかった。糸井重里さんのほぼ日刊イトイ新聞、通称「ほぼ日」。ぼくは「ほぼ日」に憧れて「カシミア広場。」をはじめた。2011年6月11日のことだ。

ぼくがウェブ上で文章を書きだしたのは、2009年にまでさかのぼる。当時なにかと可愛がってもらっていた、作家のひすいこたろうさんに勧められたのがきっかけだった。その頃ぼくは大学を休学中で、4月1日にアメブロを開設すると同時に復学した。ブログを書いて2日目か、3日目、ファンレターが届いた。九州の(もちろん知らない)女性から。このときにぼくは「向いてる!」と思った。その後もアメブロを通じていろんな交流があった。ピアニストの長富彩ちゃんとも知り合って、コンサートにも結婚式にも呼んでもらった。ぼくのイベントに来てくれたりもした。今でも仲良しだ。

2年と少しが経って、ぼくはアメブロを卒業することにした。そして「ほぼ日」のようなコンテンツサイト、ウェブメディアを作ろうと思った。ぼくだけでなく、ぼくの周りの才能豊かな人たちにも、記事を書いてもらったり、参加してもらいたい。彼ら彼女らがなにかをするとき、この場所を利用してほしい。そう願って「広場」とつけた。ぼくはあくまでも広場の管理人。コンテンツはいわば広場の遊具だ。

はじめはぼくが毎日更新する「おやゆび便り」というショートエッセイと、写真に短いコメントをつけた「ウール美術館」の2つだけ。現実世界に例えるなら、ブランコとシーソーがあるだけだ。でもこれからどんどん増えていく。賑やかになっていくのだと希望を抱いた。でもそうはならなかった。原因はぼくだ。ぼくの呪いだ。

名付けるなら、評価潔癖症

潔癖症の評価恐怖症。それがぼくだった。いや、「だった」と過去形にするのは真実じゃない。今でもそういう部分は根強くある。呪いというのも正確じゃない。誰かのせいではないのだから。でも、ぼくだって望んでそうなったわけじゃない。なぜか、そうだったのだ。

クルマ好きの度を超えたクルマ狂いが、同乗者の一挙手一投足に陰鬱な視線を投げるように、ぼくは自分以外の人が「カシミア広場。」をいじくることに耐えられなかった。また、コンテンツを任せる他の人の評価や印象が、最終的に管理人である自分と紐付いてしまうことが恐ろしかった。確立されてもいない「自分のイメージ」をぼくは潔白に保ちたかったし、自分のコントロール下に置いておきたかった。その結果、ぼく主導のコンテンツ以外は生まれなかった。この時点で「カシミア広場。」はすでに失敗していた。

(唯一、例外的に成立したコンテンツは河村羽美さんの「河原で拾ってきたコトバ。」だけだ。河村さんの感性や美意識は信頼できたし、ユニークだった。メニューの「カシミア広場。」のページ下部から読めるので、まだの人はぜひどうぞ。)

進化という劣化

アメブロ時代(「賢者はマナブ」というブログ名だった)や「カシミア広場。」の初期の頃の文章は、ぼく自身思い入れ深く、好きなものが多い。タイトルを見ただけで、10年近く前に書いたものでも内容を憶えてる。それに引き換え、時代が後になればなるほど、遺したいと思えるものがなくなっていった。つい数日前、先週書いたものでさえ記憶にない。深く考えず、強く思わず、息をするように(手癖で)書けるようになったのは成長ではあるけれど、手放しに称賛されるものではなかった。

「ほぼ日」のようになるべく、糸井重里さんのようになるべく、ぼくは2009年の秋から断続的に、2010年の夏からはほとんど毎日、合計829のエッセイを写経した。「ほぼ日」で糸井重里さんが書いた文章を、そっくりそのまま。今でもすべてぼくのMacのなかに残っている。「カシミア広場。」の文体や呼吸、リズムはその仮定で磨かれていった。要するにぼくは、糸井重里さんの下手なパクリをやっていたのだ。

かくしてぼくは進化し、そして劣化した。一回の更新にかける熱量は年を追うごとに薄れ、鼻歌を歌うように日常をただ紡いでいった。幸いなことに、文章が糸井重里さんに酷似することはなかったように思う(君がどう感じているかはわからないけど)。ぼくはぼくとして、ぼくらしい手癖を身につけたのは、修練という意味においてこの10年の功績と呼べるかもしれない。余談だけれど、Googleで「イデトモタカ wiki」と検索すると、なぜか糸井重里さんのウィキペディアが一番にヒットする。Googleにとってぼくは、糸井重里にもっとも近づいた人間なのかもしれない(あるいは、糸井さんの一部か……)。

危うさが失われる危うさ

大学生のとき、同級生に「オーラが見える」という女の子がいた。なぜか気に入られて、よく声をかけられた。その子が言うには、ぼくのオーラはめずらしい「透明に近い水色」らしかった。まさかの「限りなく透明に近いブルー」だ。オーラとしてそれはどうなのかと訊くと、魅力があるけれど、繊細で危ういと言われた。なるほどとぼくも妙に納得した。

その頃のぼくは、たしかに危うかった。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」の主人公のように、失恋で死んでしまってもおかしくないくらい、こころが不安定で脆かった。でもそれが、当時のぼくの書くものに不思議な魅力を吹き込んでいたのだとも思う。だから同世代や、同様のこころ(オーラ)を持った人たちに受け容れられて、どこの誰ともわからないイデトモタカないしぼくのブログは、数は多くないにせよ、読まれるようになっていった。

当時は、恋だの、愛だの、人生だのと、いわば青春の延長線上にある、きらきらときゅんきゅんときんきんがエッセイの主題だった。こころ(魂)の解放や、期待しない、比較しない、依存しない、執着しないといった、今でも変わらない思想がより強く反映されていた。加えて、曖昧な「成功」というものに対する素直な追求がテーマでもあった。それらがすべて、今にも崩れそうなバランスで保たれていた。その不安定さもまた、今になって思えば「おもしろさ」だったのかもしれない。

けれど10年が経ち、ぼくは大人になり、それなりに安定した生活基盤をつくり、危うさが少しずつ失われていった。「限りなく透明に近いブルー」は、色を深めて青が強くなっていった。透明さはもうあまり残っていないのかもしれなかった。

そして夢に幕を引く

先に書いたとおり、「カシミア広場。」構想は失敗した。思い返せば昔から集団生活や集団行動が苦手で、一人で完結できるものが好きだった。協力してなにかを達成するより、一人で創り上げることを愛した。10年とかからず、本当は気づいていたのだけれど、なにごとも終わらせるのは始めるよりもエネルギーがいるし、むずかしいのだ。

それに、「カシミア広場。」から受け取れるものは、もうみんな受け取らせてもらった。開けていないプレゼントの箱はもう(きっと)ないのだ。だからやめたというわけではないけれど、次に行ってもいいんじゃないかと思えた。今度は、つまりここは、正真正銘のエッセイを書こうと決めた。書いては消える、海辺の砂浜に書くことばではなく、いつまでも残ることばを。他の誰でもなく、ぼくにしか生みだせないことばを。

このサイトのタイトルを「イデトモタカノナカ!」としたのも、そこらの情報を組み合わせたり、まとめたりしたものではなく、ぼくのなかから生まれたことば、少なくともぼくが自分で考えたり、到達したり、結論づけたりしたと胸を張れることばだけを、書き記すことに決めたから。毎晩更新というわけにはいかなくなってしまうけれど、紙の本を読む以上の体験(エッセイ)を目指していくので、あらためてどうぞよろしくね。

では、また書きます。

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コメント

    • ゆっぴ
    • 2019年 3月 05日

    イデさん、こんばんは。
    賢者で出会い、カシミアには、
    毎晩お邪魔させてもらいました。
    その節はお世話になりました。

    そうなんだ、そういうことなのね、
    うんうん、そうだったよね、
    なるほどね、、
    読み進めていくと同時に私の気持ちも
    おだやかに、整理できつつ、うん?
    、、、なんでだーー笑

    そのくらいあの頃の私の生活に、
    こころに、浸透していたの。

    そして月に数回のエッセイ。
    あら、いまの私の生活に
    ちょうどよい感じ。

    イデさん、書き続けてくれて
    ありがとう。
    また来ますね。

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