サヨナラと、エッセイだけが、人生だ。

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エッセイとコラムの違い、おもしろさとは

名刺をもらうと、たまに変わった肩書の人がいる。昔のぼくの仕事仲間は、日本で2人目のハイパーメディアクリエイターを名乗っていたけれど、まあそういう肩書のこと。相手に憶えてもらうことが大事なのはわかるし、他に名乗っている人がいないなら、いきなり「第一人者」になれるわけだけど、なんとなくうさんくさい感じがして、ぼくはマネしようとは思わなかった。

黒澤明は映画監督だし、村上春樹は小説家だし、ジャンポール・エヴァンはショコラティエだ。それでいいし、それがかっこいい。もし黒澤明がエンパシーディレクターだとか、村上春樹がアヴァンギャルド・ノベリストだとか、ジャンポール・エヴァンがチョコっと幸せ製造人なんて名乗っていたら、ぼくは彼らのことを知らなかった気がする(そして知らなくていいと思ったはず)。

だからぼくはただのコピーライターを名乗ってきた。コピーライターは他にもたくさんいるけど、それでいい。むしろそのなかの一人になれたことがうれしいのだ。ありきたりでも、君にとって一番興味があったり、好きなコピーライターであれたらそれでいい。

そんなぼくには実はもう一つ、名乗りたい肩書がある。エッセイストだ。でも、コラムニストじゃない。

この世界をどこから語るか

エッセイというと、日記や日常っぽい感じで、コラムといえば、もう少しニュースや記事っぽい感じ。エッセイストは誰でもなれそうだけど、コラムニストは頭が良くないとだめそう。……世間一般には、そんなイメージがあるんじゃないかと思うし、実際それで大きく間違ってない。でもぼくのなかでは、もう少しだけ定義している。

Macの辞書によれば、エッセイ(エッセー)は「形式にとらわれず、個人的観点から物事を論じた散文。また、意の趣くままに感想・見聞などをまとめた文章。随筆。」で、コラムは「新聞や雑誌で、短い評論などを載せる欄。また、そこに載せる文章。囲み記事。」だそう。表現が固いだけでほぼイメージどおりだ。ぼくはこれらの違いを「世界をどこから語るか」ではないのかと解釈してる。

つまり、エッセイは個人の体験や経験を主な材料として、考えや感想を語ったもの。対してコラムは、事件や事実を根拠に、意見や主張を述べたもの。だからエッセイは主観的であるほど良いけれど、コラムは客観的な姿勢が欠かせない。ちなみに、客観というのは「時間と空間の中にあるもの」で、主観は「その条件から外れて感じたり考えたりできるもの」のことだ。例えば「椅子」は時間と空間の中にしか存在できないけれど、「思い出」は時間と空間を飛び越えて(無視して)存在できる(あるいは「椅子のイメージ」も)。

エッセイにおけるおもしろさ

社会のニュースや事件についてではなく、自分の考えたことや感じたこと、経験したことを話したい。だからぼくが書きたいのはコラムではなくてエッセイなのだ。そして書くならとびきり「おもしろいエッセイ」がいい。じゃあ、おもしろいエッセイとはどういうものなのか。この答えは、ぼくのなかで「おもしろい講演とはなにか」を追求する過程で導きだされた。

生意気なことに、20代の前半から何度か講演をさせてもらった。招待や依頼があったので、受けたのだ。冷静に振り返ると、依頼する側もされた側も、酔っぱらっていたんじゃないかと思う。さらに調子に乗った(酔いが回った)ぼくは、自分でも人前で話すイベントを企画した。場所によっては、お客さんの8割以上が年上だったし、そうなることも予想ができた。だから「なにを話せばいいのか」という問への解答を、ぼくは必死に考えなければいけなかった。なめられたくなかったし、薄っぺらい人間だと思われたくもなかったから(女の子も多かったし)。

そして出た答えは「誰にもできない話をする」だ。つまり、ぼく(イデトモタカ)にしかできない話。講演に来る人は、知識を得たいわけじゃない。情報を知りたいわけでもない。まして戯言を聞きたいわけでもない。だから薀蓄(うんちく)や方法論、本で読んだこと、適当な予言や調べればわかることを言っても仕方がない。そんなものでは価値にはならないとぼくは思った。まして聴衆は歳上ばかりだ。メッキなんてすぐに剥がれる。

だけど、どんな相手にでも、絶対に剥がれない「ほんもの」が一つだけある。それがぼくの人生だった。

手を使った話かどうか

他人のことばをそれっぽく語るくらいなら、黙っていたほうがまだましだ。だけど、自分が人生で経験したこと、体験したこと、そこからわかったことが、たまたま誰か他の人と同じことばになったとしても、その話には金を上回る価値がある。結局ゲーテと同じことを言っていても、ニーチェと同じ結論にいたっても、それが自分の人生のなかの「ほんとう」なら、胸を張って語ればいい。誰に聴かせても恥ずかしくない。それがぼくの結論だった。

さらに言えば、「手を使った話」かどうかが問題になる。手というのは説得力で、つまり生きる道具として動かしてきたものを通じて、語られたことばかどうかということ。うん、自分でもちょっと何言ってるかわからないので、こんなときは例え話をしよう。

散髪屋があったとする。店主はこの道40年のベテランだ。店主は散髪中に日々お客さんと話をする。政治の話、スポーツの話、食べ物の話。どんな内容にせよ、店主が自分の「手」、つまり散髪屋として生きてきた実感や体験からテーマについて語るなら、それは「(店主にとって)ほんとう」で、どれも40年の歴史と知恵によって磨かれた金言になり得る。でも自分の「手」と絡めず、ただ思いつくままに喋るだけなら、それはどこにでもいるおじさんの、取るに足らないおしゃべりに過ぎない。この差が決定的で、どこまでも重大なのだとぼくは捉えている。

優れたことばは経験になる

君にも思い当たる節があればいいのだけど、素晴らしい話、優れたことばは、それ自体が経験や体験として人生に残る。旅や恋のように感情が動く。でもそれは、小説を読んでおもしろかったなと憶えているのとは違う。ほんとうに、自分の人生(日常)に起きたことのように刻まれるのだ。ぼくにはそんな体験がうんとあって、だからこそ、自分もそういうものを書きたいと願っている。

まとめると、おもしろいエッセイというのは、ぼくにとってこういうものだ。まず、他の誰にもできない、その人の人生から出たことばであること。「手」を使って考えたり、思ったりしたものであること。そして読み手にとって、まるで体験のように記憶され、経験の一つとして人生に残るものであること。

どの要素も抽象的で、判断材料としては曖昧(不完全)かもしれないけど、今現在のぼくにとって、これがエッセイの理想形(イデア)だ。そもそも君はエッセイを書く人間じゃないかもしれないし、関係ないと思うかもしれないけど、物事の真贋を見分ける目(尺度)を持つことは、きっと損にはならないはずだ。誰かのエッセイを読むことは、これからもあるだろうしね。

愉快な先輩の一人に

ぼくは小説を愛しているし、ビジネス書や実用書に助けられてきたけど、人生を教えてくれた先輩はエッセイだった。いつかぼくも、君みたいな人の先輩になれたらうれしい。だからエッセイを書きたいし、好きなのだ。

では、また書きます。

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