サヨナラと、エッセイだけが、人生だ。

  1. エッセイ

ポーカーに学んだ人生の教訓(1)

子どもの頃からカードゲームが好きで、夕食後に家族みんなでトランプをするのがいっとう楽しみだった。1週間に1回もそういうことはないのだけど、そしてぼくは末っ子なので勝てないのだけれど、みんなでカードを囲んで過ごす時間を無償に愛していた。

小学校でも晴れの日はグラウンドで「テンカ(天下?)」と呼ばれていたコートのないドッジボールの派生のような遊びをしたり、鉄棒をしたり、竹馬をしていたけれど、外に出られない雨の日は、仲のいいメンバーでトランプをした。トランプはいつもぼくが持っていて、手品で少し驚かせるようなこともしていた(将来の夢がマジシャンだった時期もある)。

紙モノの魅力

小学生のときはもっぱら「大富豪」をした。何度やっても飽きないのだから、考えた人は天才だと思った。UNOもときどきやったりはしたものの、ぼくはトランプの方が好きだった。

中学生になるかならないかというくらいからは、世界初のトレーディングカードゲーム(TCG)であるマジック・ザ・ギャザリングやモンスター・コレクション、ポケモンカード、遊戯王(デュエル・マスターズ)、その他なんだかよくわからないものまで、様々なカードゲームに手を出した。

とりわけマジック・ザ・ギャザリングはドハマリして、大阪ドームで開催されたイベントでは、現役の日本チャンピオンに勝ったりもした。余談だけれど、月刊『ぎゃざ』なんてマニアックな雑誌も愛読していた。

やっぱりトランプが好き

高校生、大学生になると、プレイ仲間がいなかったし、部活ではじめたダンスにも熱中していたので、TCGからは離れていった。でもやっぱりときどきカードゲームはしたいので、誰も知らないようなトランプのゲームを見つけてきては、仲間と遊んでいた(2人用のカシノ、3人用のゼッテマ、4、5人用のマキャベリは特に掘り出し物だった)。

それでも一番夢中になったのはテキサス・ホールデムと呼ばれるタイプのポーカーで、これは今でもプレイしている。TCGにはコレクションの楽しみや、絵柄を愛でる歓びもあるのだけれど、蒐集に終わりがないこと、次から次へと環境が変わること、お金と場所を必要とすることから、趣味として本気になりづらい部分があった(ミニマムな生活を追求しているぼくとしてはなおさら)。

その点、トランプはいい。52枚から増えることはないし、2セットも持っていれば十分だ(人生でそれ以上いらない!)。なによりフェアな気がした。相手は持っているけど、自分は持っていない、なんてカードは存在しない。将棋や囲碁のように実力だけではない、かといってコインフリップのように運だけでもない。その塩梅もまたぼく好みだった。

ポーカーから学んだこと

テキサス・ホールデム・ポーカーというゲームがどういうものかを詳しく解説するのは、今回の目的ではないので割愛するけれど、端的に言えば麻雀や花札のように「役」をつくるゲームだ。面白いのは、「役」がつくれなくても、駆け引きによって勝つことができる。お互いに相手のカードは見えないので、自分は強いと主張することで、本来負けている場合でも、相手が降りれば勝ちになる。

ポーカーでは「チップ」と呼ばれる仮想的なお金をやり取りして(賭けて)、最終的に「チップ」を一番集めた人が勝者になる。競技者は世界中にいて、世界大会では優勝賞金は軽く億を超えるのだから夢がある。もちろんプロプレイヤーが存在する世界で、アメリカなどでは職業として認められている(子どものなりたい職業では常に上位だ)。

ポーカーに限らず、ぼくがカードゲームから学んだことはたくさんあるけれど、そのなかでも特に「真理だ!」と思ったことを紹介しようと思う。

勝ち負けよりも”正しい判断”を

カードゲームは前提として判断のゲームだ。選択のゲームと言い換えてもいい。自分にはそのときどきの状況に応じて、選択肢が与えられている。勝負に参加するのか、しないのか。チップを賭けるのか、降りるのか。嘘をつくのか、つかないのか。

正しい判断をしたからといって、必ず勝てるわけではない。間違った判断をしたからといって、偶然勝つことだってある。相手の手札と山札という、隠された情報がある限り、絶対に正しい判断なんてものはないし、運の影響からも逃れられない。何度となく間違っていないはずの選択をして負けるし、適当に選んで勝つことを繰り返す。けれど、考えることをやめてはいけないのだ。

勝負の勝ち負け、そのときどきの結果はあるのだけれど、それを一番に捉えるべきではない。その手前の「判断」が正しかったのかどうか。判断が正しくて、運が悪かったなら、それは「そんなこともある」でいい。判断が間違っていて、運が良かったとしても、それは反省すべきことだ。勝ち負けよりも「正しい判断だったのか?」を常に考える。この思考は、ぼくをずいぶんと育ててくれた。

個人の生活をプレイする

人生はカードゲームではないけれど、瞬間々々に判断が求められている点では同じだ。いま何をするのか。いま時間をどう遣うのか。あるいはお金をどう遣うのか。

人生にも運や偶然がある。正しい行いをしていれば、望む結果が毎回手に入るといった保証もない。だから結果ばかりに目を向けていたら、慌ただしく一喜一憂を繰り返すだけで一生は終わってしまう。でも「判断は正しかったのか?」という思考なら、結果を切り離すことができる。

結果はどうあれ「正しい判断だった!」と胸を張って言えたなら、最終的にはきちんと報われると信じていい。信じたらいい(それは信仰していい宗教だ)。では、なにをもって、どういった基準でもって、「正しい判断」か否かがわかるのか。むずかしいことではなく、それは自分が人生で求めるものが、いつだって基準になる。だから目的や目標がないと、そもそも判断に「正しい」も「間違い」も存在しないことになってしまう

(俳優になりたい人と、ソムリエになりたい人とでは、お金と時間の遣い方の判断の正しさはずいぶんと変わってくると思う)。

一つのやりかたとして

間違っているけれど得する判断もあるし、正しいけれど損する判断もある。間違っているけど楽な選択もあれば、正しいものの大変な判断もある。結果だけ見れば、損するよりは得するほうがいいし、大変な思いをするより楽なほうがいい。

それでも、自分が最終的に目指すものから逆算して、利害を一旦無視して「正しい」を判断してみる。それは一つのやりかたではないかと思うのだ。

人だから間違うし、人だから弱さもある。「正しい」だけが全てではないし、それは人に押し付けるものでは(決して)ない。正しさで迫ってくる人なんて、ろくなやつじゃない。勘違いしてほしくないのは、これらはあくまでも「自分との会話」だ。相手には相手の、他の人には他の人の、正しさがある。それは外野が口を出すことじゃない。

よく眠れる生きかたを

正しい判断ができたと誇れるなら、結果が残念であったとしても、穏やかに眠ることができる。ぼくはそういうふうに眠りたい。

個人的には「正しい」よりも「美しい」のほうが好きなことばではあるのだけれど、数学的に、あるいは論理的に、あるいは倫理的に、「正しい」を判断基準にする場合がいいことも人生ではある。なぜなら、日常では「正しさ」は自分でわかっていたりするものだから(ポーカーでは数学的に確率を求めなければいけないことが多いけれど)。

ぼくがカードゲームやポーカーから学んだことは、まだまだたくさんあるのだけど、ずいぶんと長くなってしまったので、またどこかの機会で書くことにしよう。「正しい判断」をするなら、ぼくは一刻も早くお風呂に入って眠るべきだし、今すぐオンライン・ポーカーの画面を閉じるべきなのだけれど……これがなかなかできないから困っておる。

では、また書きます。

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