ESSAY

2012-01-28

居場所の危機感。

人は居場所の生きものだ。そういう結論が、きょうぼくの中で出ました。

ぼくらはだれに教わったわけでもなく、嫌われないように、反感を買わないように、ことばを弱めたり、曖昧にして相手に伝えることが多々あります。

ぼくらは100のほめことばより、時にたった1つの批判にこころを攫われてしまいます。ネガティブな意見ほど真に受けて、ポジティブな賛美の何倍も影響を受けてしまいます。

それは、どうしてなのかしらん。その理由を考えていました。マイナスのことばの方が、プラスのことばよりも、じぶん(こころ)が大げさに捉えるということは、それだけ重要だからなのだと思います。では、どんな点で重要なのかといえば、それはきっと「じぶんの居場所」にとって、ということになるのではないかしらん。

ヒトという生きものは、他のヒトという動物やモノとの関係性を通じて、「わたし」という存在を確認します。「わたし」は他のだれかの親であったり、他だれのだれかの子どもであったり、どこそこ学校の生徒であったり、どういうモノが好きで、ナニに興味があったり、という、そういう生きものです。「わたし」を「わたし」だけで説明することは、これはむつかしいことです。そして、この「わたし」には、じぶん自身が「こうだろう」という大方の予測というか、これ以上であってこれ以下でないという、気持ちの落ち着くイメージを個々に持ちあわせています。それがいわば、この世界におけるじぶん(わたし)の居場所になるのでしょう。

反感を買わないように振舞ったり、ネガティブな意見、マイナスのことばに、プラスのことば以上に敏感に反応してしまうのは、他の人からのマイナスの評価の方が、じぶんの「居場所」に影響を及ぼす可能性がうんと大きいからなのではないかと思うのです。

人はほめられるとうれしいですが、それが予測している範囲だったり、大きくじぶんのイメージ(居場所)から逸脱していない限り、こころへの影響は、さほど深刻にはなりません。けれど、それがネガティブなことの場合、それがどの程度であれ、じぶんの居場所の変化、とりわけ「降下」を感じるのではないかしらん。それを、恐れてビクっとしてしまうんじゃないかなぁ。なんだかね、そうんなふうに思います。(もう少しこの考えはまとめてみます)

イデトモタカ