ESSAY

2012-02-06

理のないところで。

気が合う、ということと、大好き、ということは、似ているようでちがうんだ。短いけれど生きてきたなかで、そのことにゆっくり気づいてきました。

気が合う、というのは理性の話で、もちろん気が合うのなかにも感性の部分は含まれるのだけれど、大好き、というもののなかには「理」がなくても、むしろないほうがじょうずにやっていけたりするものではないかしらんと思うのです。

相手が人でも、相手がモノでも、気が合うのなら理性の話を、大好きなら理性でない話を、してしまう、してしまいたい、それがいちばんたのしんですよね。

たとえば気の合う相手とは、「理」の部分で話をするのを望みます。そこが、つながりの気持ちよさだと思うのです。モノだとしたら、そのモノのなかの「理」に関するところで、共感して、そこについて語りたいと思うのです。

いっぽうで大好きな相手とは、「理」の部分を抜きにして、いたくどうでもいい話をするのを望みます。そこが、つながりの心地よさだと思うのです。モノだとしたら、そのモノのなかの「理」に関しないところで、ぼんやりと愛を表現したいと思うのです。

気の合うあなたとは、今朝のホットケーキの話より、もっと深い話がしたいんです。仕事とか、夢だとか、思想の話がたのしんです。でも、大好きなあなたとは、ビジネスや計画や最近得た知識の話より、そんなものはどうでもよくて、昨日見た虹の話とか、変なかたちの雲の話とか、駅にいたおもしろい小学生の話とか、そんなどうしようもない話をしたいんです。でもそれが、いっとう贅沢なことだと思うのです。

イデトモタカ