ESSAY

2012-10-18

応援というものは。

応援というものは、できるときに、したければ、する。そのうえで、じぶんが無理なく、できるサイズのことをする。という、ただそれだけのものだとぼくは思っています。ボランティアに関しても、似たような価値観をぼくはもっています。

なので、応援することが、過度に求められたり、過度に評価されていたりする状況をみると、とても違和感をおぼえてしまいます。そういうのじゃ、ないんじゃない? と思ってしまいます。

たとえばぼくはいろんな人から、ネーミングやキャッチコピーの依頼を受けます。そのときに、それがお仕事なら、内容や金額やじぶんのやる気に応じて、請けたり請けなかったりを選びます。

それが仕事じゃなく、ともだちなどから「ちょっと力を貸して」という場合だったなら、ぼくはじぶんがそれをいま応援できる状況で、やりたいと思ったら「いいよー」といいますし、やりたくないと思ったら「ごめんー」といいます。仮にやりたいと思っても、それをできる立場や状況じゃなかったり、明らかにじぶんの分を超えているものに関しては、引き受けないことにしています。(というか、できないしね。)

だから、「いまは歯を食いしばって、あの人のことを応援するんだ!」とか、「なんで俺がこんなにお願いしているのに、あいつは協力してくれないんだ!」とか、そういうのは、ちょっと違うんじゃない? と感じてしまいます。

応援する側ができることというのは、応援できる状態でいることであり、したいと思ったときに、できる範囲のことを(気もちよく)してあげる、ということです。反対に、応援してほしい側にできることは、応援してもらえるじぶんであるように生き、応援できる状態の人に、応援できるサイズのことをこころからお願いする、ということなんだと思います。

どちら側にせよ、それより外のことを求めるのは、ぼくは「応援する」ということを、なにか他のものと勘違いしているんじゃないか、もしくは、『ただ好き。』のときに書いたように、別の思惑と混ぜてしまってるんじゃないか、というふうな気がします。

できるときに、したければ、する。それで、いいんじゃないですかねー。

応援するにしても、好きでやってる、と思えないとねー。

イデトモタカ