ESSAY

2012-10-30

人工的にやめるのはよくない。

自然に生きる、ということを最近とても大切に考えています。そのきっかけには吉本隆明さんの「人工的にやめるのはよくない」ということばの存在があります。

人工的にやめるのはよくない、というのはどういうことかといえば、ぼくの場合でいうと、もうダンスはしないとか、もうギターは弾かないとか、そういう何らかの決意をもって意識的に断絶したものというのは人工的で、そういうのが「いいことではない」とおっしゃっているのだと受けとっています。

人間関係にしてもそうで、あの人にはもう合わない、連絡を取らない、と意識して遠ざけたり、縁を切ってしまうのは人工的といえます。そうしなくても、先のぼくの例でいえば、他に夢中になれることができたり、なにか別のものに時間をとられるようになると、自然とそれらとは縁遠くなるものです。人にしたって、その時々で、じぶんが自然に振る舞っているだけで、なるようになるといいますか、自然な状態というものは形成されるものです。

この文章を読まれた方によっては、いやいや、そんなことはない、断固とした決意や意志は人生に不可欠だ、という反論がよぎるかもしれません。ぼくにもそういう意見はとうぜん同居しています。けれど、実感というか、これまで生きてきた肌感覚としては、この「人工的」よりも「自然」であるべきという考えは、とてもよくわかるのです。

大きな理由の一つに読書があります。これまである種「人工的」に読んだ本というのは、やっぱり身になっていないんですよね。ここでいう人工的とは、じぶんの置かれている環境や立場とは無関係に、ということになります。実際にあった話でいうと、まだ高校生なのに、「部長の条件」みたいな本だったり、「成功する営業マンの手帳術」だったり、これはもうまったく不自然な読書です。その一方で、そのとき一緒にいた人の役に立とうと思って勉強したホームページ制作に関する技術本の知識なんかは、いまだに重宝しています。それはごく自然に学んだからだと思っています。

まずはじぶんの気もちありき、です。どういう「気もち」を持っているかで、使うことばも行動もほしい結果も違ってきます。それに対して自然と人工的が出てくるのだと思います。この「気もち」を大切にするのなら、こういう生活は自然で、こういうのは人工的だ。この「気もち」を優先するのであれば、この付き合いは自然で、これは明らかに人工的だ。そういうものって、あるんじゃないかと感じています。

ちなみにですが、ぼくはいま腰を痛めていて、それは日ごろの運動不足からなのですが、治ったら、少し走ろうと思っています。これはとても自然な成り行きなんだと歓迎しています。一念発起して「運動するぞ!」というのとは、違いますからね。

見えない力に素直に従うと、物事がすべてうまくいく。ぼくの名刺入れに入っていることばです。お世話になっているある起業家の方からいただきました。ぼくはこれまでいろんなことを人工的にやってきて、その答え合わせを、最近はやってるような気分です。

イデトモタカ