ESSAY

2013-01-08

一喜一憂しながら。

ぼくはじぶん自身に対して、ストレスに敏感なほうだと評価しております。弱い、というわけではなく、小さな針の振れでも気になる、という感じです。ニットの服の袖口が伸びてきた、靴下の先が薄くなってきた、革靴のかかとのゴムが減ってきてる、いまのじぶんは、まえのじぶんとは違うのに、まえのじぶんの服を着ている違和感、そういうことは、なにもぼくだけでなく、みなさんも気づくし、気になると思います。(気にならない人は気にならないようですけれど。)

そういうことに気づくのは、そしてそれを小さいとはいえ「ストレス」だと感じてしまうということは、「生きる」というもののうえでは面倒くさいことです。厄介で、多かれ少なかれ疲れることです。

そういった「ストレス」という名の反射は、その都度々々、こころを小さな力で擦(こす)ります。ちょうどサイズの合っていない靴が、小さな痛みとともに小指の側面を擦るように、こころのどこかに見えない程度の傷をつけます。するといつの日にか、足の指の場合にはその部分がタコのように硬くなり、ある意味では強くなり、なにも感じなくなってきます。

これは「痛みに強くなった(感じなくなった)」という点では進化です。けれどそれを「感度が鈍くなった」と見れば退化です。なので、なんともいい難いところがあります。(小さな痛みには)強くなったほうがいいぞ、という意見ももっともですし、いや、そういうものに慣れないほうがいいぞ、といわれれば、その意見にもまた首肯してしまいます。

世界は鈍感に優しい。
世界は敏感に厳しい。

昔読んだ本に、そういう台詞がありました。まったくそうだなぁと、思いました。(ぼくを含め、じぶんを「敏感」だと信じて、だれもがこの文章を読むのでしょうが)感覚が、感性が、鈍く硬くなるということは、生きるをするうえで、ラクといえばそうなのでしょう。気に入った鞄を選ぶために、一日中歩きまわるということもないでしょうし、どの紅茶も誰が淹れてもおなじように美味しいと思い、腕時計は正確に動いて丈夫なら問題はなく、似合っていないのはわかっているけど、余裕がないので仕方なくこのコートを着ないといけないと、鏡を見るたびに苦虫を噛みつぶすこともないというのは、そのすべてが気になるという人と比べたら、それはそれはラクに愉快に生きられることと思います。生きる智恵といえば、そのとおりかもしれません。

けれど、ぼくはそうじゃなくていいほうをあえて選びつづけたいなと思っています。ひどく面倒くさい、繊細で敏感なまま、歳をとりたいなと思っております。こういう場所(カシミア)を好んでくださっているあなたにしても、おそらくそうなのだと想像します。まったく、生きにくい世の中ですが、小さなことに一喜一憂しながらも、たのしく参りましょうぜ、とね。(そのかわり、出会う世界は深いから。)

イデトモタカ