ESSAY

2013-01-29

守破離について。

守破離ということばがあります。「しゅはり」と読みます。もともとは日本の武道や茶道など、「道」とつく分野における師弟関係のあり方に対する思想の一つ、なのだそうです。

以下は手元の辞書によりますが、まずは師匠にいわれたこと、型を「守る」ところから修行が始まります。その後、その習った型とじぶんとを照らし合わせ、研究することにより、じぶんに合った、より良いと思われる型をつくることで、既存の型を「破る」ときが来ます。そうして最終的には師匠の型、そしてじぶん自身が生み出した型の上に立脚した個人は、じぶん自身と技についてよく理解しているため、型から自由になり、型から「離れ」て、自在になることができる、ということだそうです。

なるほど、あらためて調べてみると、知っているようで知らない深いことばです。そしてこれは普段、ぼくらの人生や生活においても、とても「使える思想」だと感じています。

ここで重要なのは、最初の「守」をきちんと行うだけでも、十分に結果は出る、ということです。これは、守破離ということばが独り歩きして、忘れがちになっている部分ではないかと思います。「守破離」と聞くと、最後の「離」までいかなければ、じぶんのものではない、意味がない、結果が出ない、なんだかそんな風潮にあるような気がします。けれど、そうではないんですよね。「守」だけでも、型を究めることができたなら、それで十分に「すごいこと」なのです。次にある「破」と「離」については、自ずと現われるものであり、目標とするようなものではないと思うのです。

だから、一番まずいのは、危険なのは、まだ「守」の段階なのに、結果が出ないからとオリジナルを求めることです。これはもう、ほんとに、最悪な事態です。「守」の段階で結果が出ていなければ、本当はなおさら「守」を究めることに意識を向けなければいけません。

あらゆる分野に「型」というものはありますが、型は一人の人間の人生を超えた、遥かに長い時間を経てつくられた叡智だと思うのです。それを使いこなせていないうちは、それは相当に「まだまだ」なわけでして、なおさら愚直に「守」に励むのがいいぞ、と、いつか昔のぼくに出会ったら、云ってあげたいと思います。

イデトモタカ