ESSAY

2013-02-10

本気度にふれる。

昨年に大阪と東京で(例外的に北海道でも)行わせていただいた『役に立たない授業』というイベント内で、人間の成長に関してぼくは「地才(ちさい)」が重要だ、というお話をさせていただきました。これはつまり、生きている場所、生活している環境が人に与える影響は多大だぞ、ということでして、少し前衛的なことをいっているとすれば、「なりたいもの」があるのなら、技術や知識の前に、それに相応しい価値観や縁が得られる場所を探して行け、ということになるかもしれません。要するに、場所(地)によって育まれる才能こそが、天や人から得られるものよりも重大だということです。

これについて、最近またいろいろと思うことがあり、数日前に昔の仲間と話していたのですが、とても意見が一致したのが「本気度」についてでした。人はじぶんが身をおいている場所の「本気度」によって、成長したり退化したりします。例えばサッカーをしている少年が、海外の一流のクラブチームに入った途端に、一生懸命やっていたと思っていたじぶんの地元の練習を、「なんてぬるかったんだ!」と思ったりするでしょう。仕事にしても、こんなに細かいところまでやるんだとか、こんな誰も見ていないような場所にまでこだわるのか、ここまで深く追求するのか、突き詰めるのか、と、「本気度」の価値観に驚かされたりします。そして、それが人を成長させるんじゃないかと思うのです。反対に、それに順応できず、冷めた目で「やり過ぎでしょ」と思ってしまうようでは、やっぱりそこで(その分野で)の成長はもう求められないのではないか、と思うのです。

本気度が違う場所、地域、集団、もっといえば一番「それ」において「本気」の場所が、あなたを成長させるのだということは、そりゃぁ当たり前だよね、というわけです。そしてその「本気度」というものが、「なに」に「どう」本気なのかということが、文化であり風土であり、企業においても組織においても、もっとも重要な一要素なのではないかという気がします。

ぼくはゆるく生きておりますが、そういうことに関しては、あつくいたいなと思っております。効率から感動は生まれない、という人がありましたが、ほんとにそうだなぁと思うのです。ある範囲内での効率は、必要なものですが、それ以上にだれかを感動させるのは、受け手の常識や価値観を超える、清々しいまでの「本気度」に触れたときではないかしらん。少なくともぼくは、そう思っております。

イデトモタカ