ESSAY

2013-02-13

女房的リアリズム。

「女房的リアリズム」ということばを、ぼくは吉本隆明さんの講演で知りました。どんなにすごいといわれている人でも、近親者からすれば、ただの人なのです。外では先生、神様、と呼ばれていても、家では「あんた」だったりするものです。

けれど、その人が内と外で嘘をついているか、猫をかぶっているのかといえば、そうではない。人間らしくふつうに過しているほうが、むしろこの「女房的リアリズム」は働きます。そのために、人は非近親者しか救えない、という見方もできます。近くにいる人同士では、見えなくていい背景が見えてしまうから、それが大抵の場合は邪魔をしてしまうのです。

「偉そうなことをいっているけれど、昔はただのガキ大将だったじゃないか。」「外では尊敬されているようだけど、小さいときは内気な泣き虫で、よく一緒に遊んでやったじゃないか。」「数年前までネガティブなことばっかりいって、溜め息混じりにコンビニ弁当食べてた奴が。」

そういう思いが小さじ一杯でもあったなら、やっぱり人は斜に構えてしまうものです。あたまとこころを真っ白にして、フラットな気持ちで聞くことは難いのです。

ということは、尊敬や憧れや心酔や偉大さというものには、ある種のブラックボックス、つまるところ幻想や期待や想像妄想の余地が、少なからず必要であるのではないかと思います。反対からいえば、知りすぎることで失われることば、というものもあるのだ、という気がするのです。

その上で、なお近親者、つまり親や伴侶、パートナーから信頼以上の敬畏を受けているとすれば、ともすれば外の人たちが感じるのと同じ偉大さがあれば、それは本当にすごいことですが、果たしてそれは「人間らしい人間なのか」という疑問が、ぼくなんぞは抱いてしまいます。有識者の方々などは、そういったものを目指そうと自身を鍛え、戒め、道徳的であろうと努められておりますが、いやぁ、「やめとけやい」というのが本音です。

女房的リアリズム、いいじゃねぇか、と思います。そういう人のほうがね、ただただ、ぼくは好きです。人間をたのしくやってると、そうなるんですよね。ただ、この「女房」にお伝えしておきたいのは、あなたの前にいる「あんた」がリアルなのでなく、外の顔も内の顔も、どっちもホントなんだ、ということです。

イデトモタカ